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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年8月7日  年間第19主日 C年 (緑)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました(ヘブライ11・17より)


イサクの奉献をアブラハムに命じる神
  モザイク
  イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀

   

 きょうの表紙絵は、第2朗読、ヘブライ書11章1−2、8−19節(短い場合 11・1−2、8−12)の中から、11章17節の「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました」にちなむもので、アブラハムが神の呼びかけを受けるところを表す、モンレアーレ大聖堂のモザイクである。ヘブライ書のその記述は直接には創世記22章を踏まえている。その1節−2節は次のように述べる。「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
 この場面を踏まえている図としてモザイクを観ると、神の姿は、すでにキリストにほかならない描かれ方である。全能の主であるキリストや救い主キリストを表す一般のイコンの中で、よくキリストは左手に聖書を示す巻物か本、右手は祝福かあるいは何かの命令を示すようなしぐさをしている。ここでも、その同じしぐさと姿勢で、神はアブラハムに向かっているのである。アブラハムが両手を開いて、神に向けてその両手を掲げている。ここには、虚心にうそいつわりなく、神に応答している姿がある。アブラハムの「はい」をこれほどはっきり感じさせる表現はない。
 アブラハムの顔はどこか緊張に満ちている。その命令の内容が厳しいものであることへの反応が示されているのではないだろうか。ただ、創世記22章では、神の命令に対するアブラハムの反応が一言も述べられていない。神のことばに対しては、アブラハムはただ沈黙のうちに応答している。他方、供の若者たちやイサクに対しては、はっきりと神に従って行動する姿勢を言葉で示しながら、それをたんたんと行っていくのである。
 神に対する沈黙の従順は、アブラハムが最初の召命のときにもすでに示している。きょうのヘブライ書11章の8節はそのことを思い起こせている。「アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。対応する創世記の箇所では(12・1−4)では、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。……」と言われたアブラム(=アブラハム)は、「主の言葉に従って旅立った」(4節)と書かれているだけである。そこには「はい」という態度が満ちあふれている。この場面をこのモザイクにみる、神とアブラハムの対面の中に重ね合わせてもよいだろう。
 いずれにしても、アブラハムは信仰の模範、信仰の父としてここでは語られているが、ヘブライ書は、この信仰のことを神の都への待望としても表現している。「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」(11・10)と。「わたしが示す地」(創世記12・1)がここで神の都と言及されて、終末における聖なる都の出現、言い換えれば終末における主の来臨、神の国の完成のことを指して言っていると思われる。この待望のテーマにおいて、実はヘブライ書の教えは、きょうの福音朗読箇所のルカ12章32−48節(短い場合12・35−40)とつながってくる。「人の子が思いがけない時に来るのに備えて、用意していなさい」(12・40参照)というメッセージである。キリスト者の世に生きる姿勢を端的に言い表すものである。
 このメッセージによって、福音は、さらに日々、我々がささげるミサの核心にもつながっていく。「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」……神の約束の完成の時まで、世にあって、我々は導かれて生きていく。ミサは、その約束の確かさをあかしし、宣言しつつ、それに向けて、キリスト自身が与えてくださった糧に強められる集いである。モザイクに見るアブラハムの「はい」の姿勢は、たしかに今、ミサに集う我々の姿勢につながっているのである。

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