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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年9月11日  年間第24主日 C年 (緑)
「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(ルカ15・6より)


良い羊飼い
  壁画
  ドミティッラのカタコンベ 4世紀
   

 きょうの表紙絵は、キリスト教美術初期のカタコンベの壁画から、良い羊飼いの図である。一匹の羊を肩に担ぐ羊飼いの姿に、人間の魂を死後においても永遠に導いてくださる主キリストを眺めていたとされる画題の絵である。ここでは、飼い主に導かれる羊の群れに神の民全体のイメージがこめられていると同時に、同時に一匹の羊(一人の人の魂)を大事に保護する方として主の姿がクローズアップされている。緑の植物に囲まれた光景は、楽園を示しているようである。
 ふつう良い羊飼いのテーマというと、復活節第4主日に毎年読まれるヨハネ福音書10章のイエスの説教が思い浮かぶ。父である神、またはイエス自身が羊飼いに譬えられて、羊の群れへの永遠の導きを約束するところである。しかし,きょうの福音朗読箇所はルカ福音書15章1−10節(または1−32節)。やや違う文脈である。そこでは、感情豊かな羊飼いの姿が浮かんでくる。見失った一匹の羊を助け出すまで捜し回り、その羊を見つけて家に帰ったとき、家の者に一緒に喜べというのである。表紙絵の羊飼いにも、きょうの福音朗読箇所で語られる羊飼いの姿が十分に窺えるのではないだろうか。少なくとも、一匹の弱々しい羊を力強く首に巻き付けるように抱えている姿に、羊との親密さな結びつきが強調されていよう。
 ところで、きょうのルカ福音書の話の羊と羊飼いの譬えは、悔い改める人の罪人を喜んで神は迎えてくださるという主題のもとに語られている。しかし、譬えの中では、一匹の羊が自ら悔い改めているわけではない。むしろ、必死でその一匹を捜し求め、見つけると大喜びをするというように、羊飼い自身が心を揺らし、感情をむき出しにしている。悔い改めるという主題が、我々人間に悔い改めなくてはならないと戒めるような教えとして展開されているわけではない。むしろ、どんな一匹も、すなわち、どのような一人の人間さえ、神は放っておかれない、見捨てない−−そんな神を知ることが大事だといわれている。
 きょうの聖書朗読配分全体の中で、福音の読み取り方を示唆してくれるはずの第1朗読を見てみよう。ここは、出エジプト記32章7−11、13−14節という重要な箇所である。エジプトから導き出された民が、堕落し、主である神を忘れて、若い雄牛の鋳造を造って、それにひれ伏して、いけにえをささげていたというところに、神は、罰として、民を滅ぼそうとされる、しかし、そこで、モーセが主自身に、民を救おうとしたとの約束を思い出させる。それに対して「主は、御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(14節)のである。ここも、神の思い直し、いってみれば、神の側の回心が触れられている。人間のほうに祈りや悔い改めを求めるだけだと、そこに思い浮かぶ神は、謹厳な恐い神であるかもしれない。実際にそのようにイメージされてきた、信仰心の歴史もあるだろう。しかし、きょうの福音と旧約の箇所が示すのは、神が生き生きと感情をもち、思いさえ変える方であることである。それは、もちろん、人間からのアプローチや態度、祈りや回心、行動の仕方と相関したものである。このような神のありようこそ、人間との関わりの歴史、そこにあるドラマティックな展開の源である。そして、我々がミサで出会うのも、神の民の祈りの気持ちや熱意に生き生きとして対応してくれる、情の豊かな神である。このような神を示される方として、神の民の群れとともにあり、一人ひとりを大切に肩に担がれる、生き生きとした主キリストをこの羊飼いの姿のうちに眺めてみよう。
 それは、もちろん、ミサで出会う父なる神と御子キリストの姿を合わせて照らし出すものであろう。神は、民の熱い賛美、ひたすらな嘆願、誠実な信仰告白を心から待ち、気持ちを動かしながら応えてくれる方である。

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