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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年12月25日  主の降誕(日中のミサ)   (白)
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1・14より)


キリストの降誕
  フレスコ画  バルナバ・ダ・モデナ作
  アテネ ビザンティン美術館 14世紀後半
   

 ビザンティン美術の、これはイコンではなく、壁画(フレスコ画)の作品。降誕図は、東方キリスト教美術でも大きな伝統をなしている。夜半のミサの表紙絵に掲げた15世紀のステンドグラスの図と比べると、似た要素と違う要素に気づかされる。
 幼子とそれを覗き込む牛とろば。これは最も広く浸透している要素。特に幼子はこの図全体の中央に置かれ、飼い葉桶というより、真紅の寝台に横たわっている。王の寝台のようである。神の子が人となって誕生されたにせよ、すでに主としての尊厳をその一身に湛(たた)えている。
 マリアは産後の状態ではなく、威厳さえも感じさせる幼子に対して、恭しく向かい合っている。両手が合わされているとすれば、礼拝的動作であるが、片手しか描かれていないとすれば、ここは、もっと母と子の間の人間的な情愛を含めて描かれていることになる。西方ではジョットの絵画にも示される、中世的伝統からの離脱の始まりがここにも示されているのかもしれない。
 イコン伝統とも変わらぬ位置と描かれ方をしているのは、ヨセフである。その思い悩み、憂いの理由については、夜半の表紙絵のところでも解説したので参照してほしい。この絵の場合、幼子をはさんで、(向かって)右にヨセフ、左にマリアの姿が、ほぼ同じ大きさで対照的に描かれており、神の子の誕生の神秘に対する二通りの人間の反応を描いているといえる。その意味を捉えることができず目を伏せている人と、その神秘を真正面から受け止め、受け入れようとしている人の対照。どちらも、我々の対応のさまを表現している。
 岩山の右側のほうには一人の羊飼いが、天使から、救い主の誕生を告げられている様子が描かれ、また、下(手前)のほうでは、マリアを横目で見ている羊飼いが描かれている。いずれにしても、羊飼いたちは、救い主の誕生、神の子の降誕を知る最初の人々であり、すべての人に救いが訪れたことの証人である。それは、この日中のミサの第1朗読箇所、イザヤ書52章10節の「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」、福音朗読箇所、ヨハネ福音書1章9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」などの言葉と響き合う。
 ところで、この絵は、東方で伝統的にイエスの誕生の場所として描かれる岩山の洞窟をやはり描いている。イコンの降誕図の定型要素となったこのような場所設定は、ベツレヘム地方特有の洞窟住居を背景とする『ヤコブ原福音書』という聖書外典が根底にあるからといわれる。それが定着したのも、ヨハネ福音書序文の思想と結びついたからである。その流れの中で、山は聖母の象徴、洞窟は胎内の象徴とも考えられるようになる。
 天から幼子に向かって注がれる星の光も、イコンの定型要素の中にあった。このひと筋の光の中に、きょうの福音朗読のヨハネ1章の語りを重ね合わせると、それは深い黙想へと導くことになろう。
 「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。……その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1・4−5、9)。神からの光が幼子に注がれ、そこで完全な輝きを身に帯びる幼子から、今度は、人間の世界、ここではマリア、ヨセフ、そして羊飼いたちへと光が及び始めている。岩山は、すでに不毛の岩ではなく、木々が生え始めている。永遠の命がすでに生まれ始めているのである。

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