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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年2月19日  年間第7主日 A年 (緑)
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい (第1朗読主題句 レビ19・18より)


律法を授けられるモーセ
  モザイク
  ラヴェンナ サン・ヴィターレ教会(6世紀)


 きょうの福音朗読はマタイ5章38−48節で、先週の福音朗読箇所にすぐ続き、律法主義者やファリサイ派の義に対して、それにまさることとしてキリスト者の義を語る。その中で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5・39)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5・44)ということばが発される。イエスの教えの真骨頂として知られる重要な教えである。世にあって、敵対、復讐、憎悪といったことに取り巻かれている人類にとって、この教えは、現代世界においてこそ、輝くメッセージであろう。
 きょうのミサの朗読配分は福音の前提となる旧約の律法を思い起こさせている。モーセを通して与えられた律法の核心部分である。箇所はレビ記19章1−2節と17−18節である。朗読で読まれない、その中間の節には、3−4節に「父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である」(3−4節)とあり、11−12節には「あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」とある。ここは出エジプト記20章4−16節で記されるいわゆる「十戒」とほぼ重なっており、いかにこれらが律法の核心をなす教えであるかを示している。
 そこで、表紙絵には、出エジプト記19−24章で物語られる、シナイ山でモーセが神から律法、十戒を受けるという場面を描くモザイクを掲げた。右上の天から突き出た、神の右手、そこに握られている律法を象徴する巻物。それを受け取るために両手を天に掲げるモーセ。しかし、彼は半身で山の下のほうを見つめている。民のいるところである。はっきりモーセと記されているこの人物であるが、見るからに青年像である。このモーセの姿がイエス・キリストの面影をも宿して描かれているとはいえないだろうか。モーセの姿勢を貫く「神から人へ」という方向軸に重ねて、きょうのイエスの教えをも味わい、そのメッセージの含蓄を味わってみよう。
 一つ黙想のきっかけになるのは、第1朗読の中の「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19・2)ということばと、福音朗読箇所末尾の「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)ということばである。同じ文形で、内容的に「聖なる者」が「完全な者」と言い換えられているともいえる。ところが、マタイのこの箇所と並行するルカ6章36節では「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と告げられている。結局、父である神のあり方のように、あなたがたもそうなりなさいということが三種の表現をもって教えられていることになる。聖なること、完全なることがややわかりにくいとすれば、ルカは憐れみ深いというふうにわかりやすく記してくれているともいえる。この解釈は、きょうの答唱詩編の選び方にも反映されていて、そこでは詩編103 の 8節が含まれているのである。「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るにおそくいつくしみ深い」(典礼訳)。これは、出エジプト記34章6節、戒めの再授与のときの主である神の自己宣言のことばと対応する。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す……」(新共同訳)のところである。
 マタイのきょうの箇所にある天の父の完全さの意味合いはこのようなところにある。だからこその、「左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えであり、それは、なによりも「ゆるす」心と行いの呼びかけである。聖なること、完全なこと、憐れみ深いこと、すべては、もちろん、父のひとり子イエスが身をもって現された。神と民を結ぶために選ばれたモーセの姿は、その、神と人の仲介者イエス・キリストを予告している。

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