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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年3月19日  四旬節第3主日 A年 (紫)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない (ヨハネ4・14より)


イエスとサマリアの女
  壁画
  ローマ カリストのカタコンベ(2世紀後半)


 キリスト教美術初期のカタコンベの壁画。この時代の壁画には、洗礼の秘跡に関する聖書のさまざまな場面が描かれていた。少年のように描かれるイエスの洗礼の図や、ちょうどきょうの第1朗読で読まれる出エジプト記17章3−7節のエピソード、すなわち、モーセがホレブの岩を打つと、水が出て、民の渇きがいやされたという場面などである。きょうの福音朗読箇所であるサマリアの女の対話の場面も描かれていた。このような、聖書の箇所の選び方は、洗礼の秘跡への入門的な導きともなっており、この伝統が現在の四旬節A年の聖書朗読にも受け継がれているのである。
 この壁画は、非常に素朴に、イエスを上(奥)に、井戸に水を汲みに来る女性を下(手前)に少し距離を置いて描く。その姿は茫漠(ぼうばく)としているために暗示的な描写に止まっているが、井戸から湧き出している水の描写はむしろ明確で力強い。水の描写に込められた心情の強さが感じられよう。
 ヨハネ福音書4章の叙述でいえば、7節の「サマリアの女が水をくみに来た」という発端の描写と見ることができる。ここから、二人の長い対話が始まる。
 その背景には、サマリア人とユダヤ人の反目という問題があってのこの対話であるが、その中で、イエスが自らについて説き明かすくだりとなる。「キリストと呼ばれるメシア」(6・25)が「このわたしである」(6・26)であると語るところが頂点である。
 その過程で、井戸からくまれる水との対比で、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)とイエスは語る。この言葉に関してはヨハネ7章37−39節が参照される。「『わたしを信じる者は、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」という箇所である。福音記者自ら、「水」が「“霊”」を意味すると解説しているところから、全体としてイエス自身の救い主としてのあり方についての説き明かしであると同時に洗礼の秘跡についての教えとして受けとめられている。 ここでのイエスの言い回しが、さらにヨハネ福音書6章の「まことのパン」として自らを語るところと相似していることも注目される。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6・51)。ここも、救い主イエスのあり方についての説き明かしであると同時に、聖体の秘跡についての教えとなっているからである。ヨハネ福音書的な説き明かしの一貫性が窺われる。
 これらと関連して、サマリアの女との対話は、さらに重要な教えを含んでいる。それは「まことの礼拝」についての教えである。エルサレムの神殿を中心にするユダヤ人とゲリジム山を聖所とするサマリア人の反目を乗り越える、新しい礼拝への視点が語られる。それを「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(ヨハネ4・23)。「霊と真理」という言葉自体、抽象的だが、ヨハネ福音書の文脈で、ここでの「霊」は、イエスが与える水と譬えられているように、洗礼によって注がれる聖霊である。真理も「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1・17)とあるように、イエスによって示された神ご自身ということができる。全体として、洗礼の秘跡によってイエスに結ばれ神の子となる過程が予告され、神の子として御父を礼拝するようになる新約の礼拝の始まりが宣言されているのであろう。
 カタコンベ(地下墓所)は、新約の神の民として生まれた人々が神とその民の歴史を思い起こし、救い主キリストの恵みを追想しつつ、御父への礼拝を営んでいた場所である。この一つの場面の素朴な描写のうちにも、聖書全体、救いの歴史全体への思いがあふれている。

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