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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年4月9日  受難の主日(枝の主日) A年 (赤)
「本当に、この人は神の子だった。」(マタイ27・54より)


十字架のキリスト
イタリアで作られた典礼書の挿絵
マドリード国立図書館(12世紀)



 多くの作例がある十字架磔刑のキリストの絵。多くが定型要素であるが、この絵固有の部分も多い。一つひとつを確認しながら、イエスの受難に対するこの絵なりのまなざしを味わってみたい。
 まず十字架の上のイエスを見てみよう。その姿は、軽く屈曲し、力なく死に至る様子で描かれている。手と足からは血が流れているが、脇腹からの流血は見られない。イエスの目も苦しげだが、まだ開いている。この時代まで、イエスの体がまっすぐで、目を開いている作例も多かったが、他方、だんだんと死に行くイエスを表現する度合いが、この挿絵のように、強くなっていく。とはいえ、イエスの身体の白さがひときわ目立つ。十字架につけられた方の身体の復活の様子がすでに盛り込まれているように思われる。
 イエスの死は単なる人間の死なのではなく、「主」の死である。イエスの死は復活へのプロセスであることを、この挿絵のリアルでありつつ象徴的でもある描写から考えてみる必要がある。
 磔刑図の定型要素である、イエスの十字架の側に立つ母マリアと愛する弟子(使徒ヨハネ)の描写も特徴的である。このような人物配置の源泉は、いうまでもなくヨハネ福音書19章25−27節で、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」というイエスの言葉とともに教会の誕生、新しい人類の誕生が示されるエピソードである。ただ、ここのマリアは珍しく腕を組み、十字架のイエスを見つめ、思いを巡らしている。愛する弟子と呼ばれる使徒ヨハネは、顔を下に向けて右手で頬を押さえて明らかに沈思している。このような表情は、降誕図において、マリアが幼子を見つめている一方、ヨゼフが独り思いに沈んでいる光景とも似ている。目を向けつつも、まだこの十字架の神秘の真理を悟れていない、あるいはそれを悟っていくまでのプロセスの中にある二人を描いているようである。
 そう見ていくと、なにか重い雰囲気にも感じられるが、絵全体はたいへん賑やかで、たくさんの図が盛られていて、賛美のリズムを醸し出している。その一つの要素は、十字架の横木の上に描かれる2位の天使であろう。手を上に挙げてこの出来事にある種の喜びと賛美を感じ、それを体現しているようである。天使の上に描かれているのは太陽(赤いほうだろう)と月。これも伝統的要素で、イエスの死の時に「全地は暗く」(マルコ15・33)なっていたことにちなみ、イエスの死による全宇宙の一新を象徴する要素である。もう一つは、枠組みに描かれている10個の円とその中の図である。この10個の円が不思議なリズムのもとである。そのうち、角の四つは、それぞれ象徴を伴う4福音書記者の図である。福音書写本画の十字架図にもよく添えられる要素である。見えづらいが左上が、人の象徴を背にしたマタイ、右上が、鷲の象徴を伴うヨハネ、左下が雄牛を伴うルカ、右下が獅子を伴うマルコである。
 上の円内はイサクをささげようとしているアブラハム(創世記22章参照)、下の円内は、聖体のパンと杯、右側の二つの上のほうは、青銅の蛇のエピソードの図(民数記21・4−9参照)、その下はぶどうの実を抱えている二人の男、左側の二つの上のほうは、契約の箱(出エジプト記24・1-18、25・10−22参照)、下のほうは残念ながらはっきりしない。これだけ見ても、イエスの十字架の出来事を前もって示す旧約の出来事や、イエスの十字架上での自己奉献によってもたらされた恵みや聖体の秘跡を示していることは確かである。
 この挿絵が書かれたのは、典礼書であり、特にミサの奉献文にちなむ磔刑図である。全体として、ミサにおいてキリストの奉献に全教会が結ばれ、聖体によって一つに交わるのだということを語りかける絵であることがわかる。ミサと聖書のつながり、受難と復活の意味について深い黙想へと誘われていく。

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