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聖書と典礼

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年7月2日  年間第一三主日 A年 (緑)
自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない(マタイ10・38より)


十字架を背負うキリスト  手彩色紙版画 アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)


 きょうの福音朗読箇所マタイ10章37−42節。なかでも、印象深い「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」にちなんでカルペンティール師の絵を表紙に掲げている。
 マタイ福音書で「十字架」という言葉が出てくるのは、ここが初めてである。そしてよく似た言い方が出てくるのが、マタイ16章24―25節。「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉は、今年(A年)の年間第22主日の福音朗読箇所に含まれている。
 このように弟子たちに自分(イエス)に従う生き方を教えるという話の中で、「自分の十字架」という表現が2箇所出てくる点が印象深い。ほかに「十字架」という語が頻出するのはいうまでもなくイエスの受難に関する叙述の中である。したがって、きょうの箇所マタイ10章に初めて出てくる「自分の十字架」という言葉は、この段階ではまだ謎めいている。イエス自身の受難のしるしとなることを知って初めて、どのような苦難を引き受けてでもイエスに従う覚悟が求められているということが、「十字架」の象徴とともに深く印象づけられる。
 このような聖書における教えの展開を絵の鑑賞とともに黙想していこう。まず、この絵の中の十字架はイエスが担いでいる。そのあとに体の角度もほぼ同じようにぴったりと3人の人がついている。一番前は青年だろう。その後ろの人は髭面なので壮年の男性、一番後ろは女性である。イエスの姿は何よりも大きく、力強い。しっかりとした足取りで歩んでいる様子が感じられる。
 やがて十字架上の死に向かうイエスの歩みは、地上(石畳の路で表現)を歩きつつも、もう光に満ちたいのちの世界に向かっている。あたかも、前方からの光がイエスの衣や顔、従う人々の顔に反映しているようである。従う人たちにとってイエスの担ぐ十字架は、いのちを庇護するものの役割をしているようである。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」 (マタイ10・39)という言葉と響き合う。そしてこのように、イエスと同じ方向を向き、同じように前方の光に照らされている弟子たちの姿を前提にして、福音朗読箇所の後半では、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる」(10・40)と教えられる。弟子たち→イエス→御父という関係の真っ直ぐな様子が、この十字架に導かれる隊列を通して表現されている。
 イエスと弟子たちはともに前方からの光に照らされているが、この点に対応するような言葉が、きょうの答唱詩編にある。「神よ、あなたの輝きを知り、その光の中を歩む民はしあわせ」(詩編89・16。典礼訳)。また、第2朗読では、洗礼の意味について語るパウロが、信者が洗礼によってキリストの死にあずかるものとなったのは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6・7)と述べる。十字架に導かれ、十字架に守られるという弟子たちのありようは、以後、洗礼の秘跡をもたらすものとして受け継がれていく。
 この三人の弟子たちは、直接「自分の十字架」を担いでいるわけではない。とりもなおさず、イエス自身の担ぐ十字架が自分の十字架であったのだろう。それでも、この絵は、左上に三本の十字架を描き込んでいる。もしかすると、彼らの「自分の十字架」の暗示なのかもしれない。しかし、それとても、つねにイエスの十字架と結ばれていることが示されているのではないだろうか。我々の十字架もやはりそうなるだろう。ちなみに、青年男子・壮年男性・女性という三人の組み合わせは、現実の教会を象徴しているともとれる。この絵は、キリストの十字架に導かれる教会の姿を表現していると言ってもよいのである。

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