本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年8月20日  年間第20主日 A年 (緑)
主よ、どうかお助けください (マタイ15・25)


イエスとカナンの女   エグベルト朗読福音書 トリール市立図書館 980年頃


 この写本画は、イエスの前にひざまずこうとしている姿勢のまま描かれている。上に「カナンの人」という文字があるので、この話の場面であることはわかる。それ以外に、これだけのスペースがありつつも、イエスと二人の使徒とこの女の人のほかに描かれているものはない。この余白の広さが逆に、この話の味わいを誘っているようにも思われる。
 ユダヤ人に対して異邦人と呼ばれる人々への救いの福音の広がりにあたり、この出来事は、イエス自身の宣教の歩みの中で生まれた転機であると考えられている。マタイ福音書だけが、ここで、イエス自身、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というように、神の民イスラエルそれを引き継ぐユダヤ人のもとにしか遣わされていないという自己意識を記していることでも、注目されている。マタイ福音書の見方では、イエスの復活の後はじめて、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)と異邦人を含む万人に向けての宣教を命じることになる。イエスの死と復活が、その決定的な始まりになったと考えられていることがわかる。そうすると、ここでのイエスとカナンの女との出会いは、異邦人宣教の始まりを予告する出来事ということになる。
 この「異邦人」の救いということがきょうの聖書朗読の中心テーマであることは、第1朗読のイザヤ書の箇所(イザヤ56・1、6−7)、第2朗読のローマ書(11・13−15、29−32)でも出てくるので、この日は、異邦人の救い、神の民と全人類との関係というテーマを黙想するにふさわしい。このことを念頭に置いて、福音朗読箇所とこの挿絵をと通して、カナンの女のイエスに対する態度や姿勢に注目しよう。
 まず登場の場面。女は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(22節)とイエスに呼びかけ、悪霊に苦しめられている娘へのいやしを願う。すでにこの呼びかけがイエスへの信仰告白であることに気づかされる。「ダビデの子」という呼称のうちに、神の民イスラエルの歴史の中で待望されてきた救い主であることへの認識が示される。同時に、この叫びを発するのは、ユダヤ人であるかカナン人であるかにかかわらず、救いを求める人間そのものである。そして、我々としては、この叫びの中に、ミサの「あわれみの賛歌」の「主よ、あわれみたまえ」にも直結する嘆願と賛美の融合した響きを感じ取とらずにはいられない。
 これに対して、イエスは、自分の使命がイスラエルの民に限定されているという意識を表明する。しかし、女は、「主よ、どうかお助けください」(25節)と再度願う。信仰告白の続きがある。そして、一つの譬えを用いた会話が展開する。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。それに対して、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。このような、主人を立てた控えめな言い方のうちに、異邦人の救い主への期待が表されている。
 この女の機知に富んだ答えを歓迎したかのように、イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と言う。祝福ともいえることばである。すると娘の病気はいやされた。この受け身の言い方のうちには、神がいやした。神によっていやされたというニュアンスが伝わる。イエスは神と人の仲介者である救い主としての姿を現し始める。それも、このような女の信仰との出会いを通して生まれた、イエスの宣教の展開である。女のことばのうちにも神が働いている。こうしてイエスの上にも、カナンの女の上にも神の働きがあることを考えると、この挿絵におけるイエスと使徒たち、そして女をも包み込む、余白の空間が重要に思えてくる。地面の側の薄い黄緑色から上の暁色のところまで、そのグラデュエーションが神のいのち、息吹、聖霊の躍動を感じさせる。それは、どこまでも静謐で、しかも温かく、明るい。そこに、異邦人も含む全人類、すべての人の救いの可能性が広がり始めている。

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL