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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年9月3日  年間第22主日 A年 (緑)
自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい (マタイ16・24より)


錨(いかり)と魚を描く墓碑図    
ドミティッラのカタコンベ 3世紀 


 最も初期のキリスト教美術の一つの典型ともいえるカタコンベの図を掲げた。絵というよりも、記号に近いといえる船の錨(いかり)の図とそれに食いついているような魚の図である。
 上に半分だけ見えている文字は、アントニア (ANTONIA)であり、この名の人の墓碑銘の下に錨と魚が記されていることになる。錨は、十字架の十字が含まれている図として、キリストの十字架のシンボル、キリストにかける信頼と救いへの希望のしるしとなっていった。そして、魚は、なによりも信者の表徴である。そのヒントは、シモン(ペトロ)たちの召命のときにイエスが言ったことば「人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19)にある。福音を告げ知らせていくべき人間が魚にたとえられ、宣教をする使徒が漁師にたとえられるともいえるからである。初期の教父たとえばアレクサンドリアのクレメンスは、キリストを死すべきものの漁師としており、死すべきものが暗に魚にたとえられている。オリゲネスは、漁そのものをキリストが危険の多い海から救出されることと考えており、魚は救出されたキリスト者のイメージで考えられていることがわかる。カタコンベという地下墓所で、それぞれの信者の墓碑銘の描かれている場合には、死後の救済、復活、安寧への希望と願いをこめて、十字架により頼む信者たちのイメージで、錨とそれにしっかりとつながる魚が描かれたのであろう。
 このような図を表紙絵に掲げた意味は、きょうの福音朗読箇所マタイ16章21−27節にある。最初の受難と復活の予告をしたイエスが、ペトロをはじめ弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)と告げる。この告知は、人の子(イエス・キリスト自身)が再び来るとき、「それぞれの行いに応じて報いる」(16・27)ということばで締めくくられる。すなわち人々の信仰の生涯の終わり、最後の審判までをも展望する重要なメッセージとなっている。
 受難への道を歩むキリストが、その道をともに歩み、徹底的に従うことを弟子たちに求めるこの言葉は、同時に、復活の約束、最後の報いへの希望をもたらすものでもある。キリスト教の信仰の姿が凝縮して示される箇所である。
 そのような約束は同時に一人ひとりの生き方、課題、使命に対する自覚の呼びかけをも含んでいる。キリスト教初期の時代は、急速にキリスト教が広まった時代であるが、同時に、ローマ帝国全土的、また局地的にも迫害や弾圧があった時代でもある。キリストに従うことは、ほんとうに命懸けの決断であった。表立ってキリストの十字架、十字架磔刑のキリスト像を表現するようになるのは、しばらく後のことである。初期においては、錨や船の帆など、十字の形が見えるところは、すべて小さなキリストの祭壇のように仰いでいたことだろう。人々は、このような形でキリストの生涯の意味を感じながら、素朴な線の中にも思いをこめていた。
 もちろん、キリスト教公認の前の時代の人々が始終、迫害にさらされていたことはないのかもしれない。信仰を貫くために、周囲の社会との間でどのような葛藤があったのかわからない。ただすべてが安楽に過ごせたわけでもないだろう。それは、我々の時代でも同じである。信教の自由が憲法によって確認され、保障されているといっても、日常の社会状況は、キリスト教の信仰や教会生活の実践にとって、いつも肯定的なものではなく、むしろ困難にさせるものが多い。第1朗読のエレミヤ書(20・7−9)が語るような、嘲(あざけ)られるような迫害はなくとも、福音朗読のイエスのことばが暗に指し示している利己的な生き方、自己中心的な生き方は、むしろ、顕著になっている。そのような現代の状況にあって、我々がイエス・キリストに従うこと、その十字架と復活の道に結ばれて生きることを求めるとき、初期のキリスト者たちが描いた錨と魚の図は、我々の信頼と希望の原点を示していることが見えてくる。それはおのずと、使徒パウロが第2 朗読(ローマ12・1−2)で呼びかける、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(12・1)ることとなっていくのだろう。

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