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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年9月17日  年間第24主日 A年 (緑)
生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものである(第二朗読主題句 ローマ14・8より)


ペトロとパウロの間に座すキリスト
壁画  
ローマ サン・ピエトロ・ エ・マルチェリーノのカタコンベ 4世紀


 表紙絵に掲げられたカタコンベ壁画の部分は、キリストの両側に、ペトロとパウロが描かれている部分である(向かって右側がペトロであろう。左手に鍵のようなものが描かれている)。少し見えているがその下には、他の使徒たちも描かれている。全体として、特に新約聖書全体においてその代表格であるペトロとパウロ、しかもローマで殉教しローマ教会の礎と考えられるこの二人を、主であるキリストの権威ある姿の両側に配置させている。使徒に使命を授けた方、そして使徒たちの信仰の中心にある方という重々しい姿が、鮮やかに示されている。
 さて、きょうの聖書朗読にちなんで、ペトロとパウロを強調したこの壁画部分を掲げたのは、福音朗読と第二朗読のローマ書の内容を考慮したからである。
 福音朗読は、だいたいこの時期になると、イエスが弟子たちに対して、「イエスに従う生き方」はどういうものであるかの教えを深めていく内容になる。きょうの福音朗読箇所(マタイ18・21-35 )では、「仲間を赦さない家来」の譬えを語りながら、限りなく赦すことを弟子たちに求めるところである。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という印象深い言い方は限りなく赦すことを強調する表現である(18・22 )。譬え話では、兄弟を赦さない家来が結局「主君」の怒りを受けて牢役人に引き渡されるという結末に至るので、弟子たちが心から兄弟を赦さないなら天の父も同じようにする(18・35 参照)という警告の印象が強い。しかし、端々に限りなく赦しを与える「主君」の姿も浮かび上がる。いうまでもなく天の父の譬えである。「主君」は「憐れみ深い方」(18・27 参照)であることが強調されており、そこは、ルカ福音書の語る「放蕩息子」の譬え(そのなかの父の姿)とも通じてくる(ルカ15・20 参照)。
 神が限りなく赦す方であるように、あなたがた弟子たち、ひいては信者たち皆に、兄弟の罪を限りなく赦しなさいという教えがあり、ここは「主の祈り」の中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という祈りの土台にある教えが語られているといわれるのである。
 このように人を赦す力は御父である神の憐れみ、いつくしみ、愛に完全に身をゆだねるのでなければ、わいてこないであろう。イエスに完全に従うこと、御父である神に自分を完全にゆだねることが根本的に教えられているのである。朗読箇所の冒頭で、「何回赦すべきでしょうか」と、イエスからそのような教えを引き出すような質問をしているのはペトロである。
 他方、第2朗読のローマ書14章7−9節は、パウロが人を裁くことに傾きがちな人々に向けて、キリスト者の生き方の根本を鮮やかな表現をもって語る。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(14・8)。きょうの箇所の文言は格言的にも響くが、ローマ14章全体は、あるいは13章から15章にかけては、当時の教会において生じていた芳しくない諸事態(価値観や習慣の違いをたてに人を差別することや、人を裁くことなど)への批判の上でなされている。キリスト者が基準とすべき価値の根源は、つねに主キリストであることが端的に告げられるのである。
 さて、もう一度、絵に戻ろう。ペトロもパウロも、それぞれの右手でイエスのほうを指し示している。こうして、主の到来、主の存在を、人々に知らせようとしている。ペトロの使徒の頭としての活動、パウロの回心とその宣教活動、数々の手紙の存在、すべてが、この壁画のように、イエス・キリストに向かっている。御父のいつくしみとゆるしを自ら体現したイエス・キリストがあくまでこの絵の中心である。そこにはカタコンベに葬られる人の信仰と希望も込められていたであろう。我々としては、ミサの中におられるキリストの姿として追想してみたい。

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