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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年10月8日  年間第27主日 A年 (緑)
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑  (イザヤ5・7より)


十二人の息子を祝福するヤコブ
ステンドグラス 
フランス オーヴェルニュ ヴィク・ル・コント教会  16世紀


 第1朗読のイザヤの預言が、神の民イスラエルをぶどう畑に譬えて、彼らに信仰を呼びかける内容である。そこから、神の民の祖型ともいえる、ヤコブと12人の息子の場面を描く絵を掲げてみた。ヤコブは、旧約聖書、創世記の27章から物語の主人公となり、やがて「イスラエル」という名を受けて(創世記35・10参照)、アブラハム、イサクへの召命を継ぐ者とされる(同35・11−12参照)。そして、創世記49章で、死を目前としたヤコブは、12人の息子を呼び寄せて祝福を与える。その冒頭の言葉は「ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ」(49・2)とある。神の民イスラエルの12部族の祖となる息子たちへの祝福の場面である。こうして、神の民の地上における旅がさらに具体的となり、モーセによるエジプト脱出、ヨシュアのときのカナン入国を経て、さらに発展し、ダビデ、ソロモンの時代の王国時代に至る。しかし、やがて北のイスラエル王国と南のユダ王国への分裂、前者の滅亡、後者のバビロン捕囚など変転を遂げる。そこに含まれる信仰の歴史の変遷を含蓄するたとえが、預言者のいう「ぶどう畑」あるいは「ぶどうの木」のイメージである。
 とくにきょうの第1朗読のイザヤ書5章1−7節は、聖書における「ぶどう畑」の譬えのもつメッセージ性をよく物語っている。よいぶどうの実は神の民の中で、神のみ旨に叶う生き方をした信仰の人、すっぱいぶどうは神の愛にこたえなかった人のイメージとなる(イザヤのほかに、ホセア10・1、エレミヤ2・21、8・13、12・10なども参照)。きょうの答唱詩編〔詩編80〕も端的にイスラエルの民を「ぶどうの木」に譬え、エジプトを脱出してカナンの地に入ったことをぶどうの木の移し替えとしている。
 きょうの福音朗読は、これらのイメージを引き継ぎつつ、ぶどう園の主人(神)が僕たち(旧約の預言者たち)を派遣したが、現地の農夫たち(ユダヤ社会の指導者たち)によって、暴力を受け、殺されること(マタイ21・25参照)、最期に主人は息子(イエス)を送り込むが、やはり農夫たちによって、ぶどう園の外に放り出され、殺されてしまう(同21・39)と物語る。ぶどう園に譬えられる神の民イスラエルが、やがてユダヤ民族のイメージとなり、その外に放り出される、殺されるというイメージでイエスの受難が予想されていることになる。マタイでは、この話の結び(43節)で、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」とイエスが告げる。神の国の種は、これまでのぶどうの園(イスラエルの民、ユダヤ民族)から取り上げられ、信仰の実を結ぶにふさわしい他の民族に与えられることになると予告するのである。
 こうしてみると、ぶどうの木、ぶどう畑、ぶどう園という譬えは、歴史上のイスラエル−ユダヤ民族に限定されたものではなく、今、イエスの登場とともに、諸民族、万人にも広がるイメージになろうとしていることがわかる。ぶどうというイメージは、こうして、信仰そのもの、神との結びつきそのもの、神の国そのものを指すものとなっていく。
 こうした、大きな歴史的な展望を含む、ぶどう畑、ぶどうの園であることから、神の民イスラエルの直接の父といえるヤコブと12人の息子の場面を出発点に創世記からの歴史全体を想起するきっかけとしてみたい。この歴史の想起の果てに、有名なヨハネ福音書ヨハネ15章1−10節における「ぶどうの木」の説教がなされるのである。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15・5)「わたしの愛にとどまりなさい」(15・9)……と。
 きょうの第1朗読も福音も、神のみ旨にこたえられなかった者への戒めが前面に出ているが、その反面では、神を求める者は、神の平和によって守られるという、使徒書のメッセージ(フィリピ4・6−9)が根本にある。神を求める人、神の愛にこたえる人には救いと幸いがあるとの旧約聖書から受け継がれる祝福は、今、キリストによって、完成されようとしている。

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