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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年10月29日  年間第30主日 A年 (緑)
あなたの神である主を愛しなさい。
 隣人を自分のように愛しなさい(福音朗読主題句 マタイ22・37−39より)


ファリサイ派の人々に語りかけるイエス
挿絵 エグベルト朗読福音書 
ドイツ トリール市立図書館 980 年頃


 きょうの福音朗読箇所マタイ22章34−40節は、ファリサイ派の人々の質問に対して、イエスが律法を引いて「神である主を愛することと、隣人を自分のように愛すること」を教えるところである。
 エグベルト朗読福音書の絵は、そのような場面を示そうとするもので、イエスのことばの内容に関してのイメージ図というわけではない。単に状況設定を表現したものということになるが、福音本文を何度も読みつつ、この絵を見ていくともっと別な面が見えてくる。ここで描かれているイエスの姿のもつ意味である。
 イエスはきょうの福音の中でもちろん、神である主を愛することを教え、隣人を自分のように愛することを教える。この隣人愛に関しては、より具体的な神の指図が旧約にあることを、第1朗読である出エジプト記の箇所(22・20−26)が示している。それは、神自身が民に求めていること、命令でさえある。つまり、ここでは、律法と呼ばれるものが直接に神の意志の表示であることが明らかである。
 そして、イエスの福音は「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22・36)という、試すような問いかけに応答するものである。それは、神である主を愛することについて申命記6章5節からの引用、そして、隣人を愛することについてレビ記19章18節からの引用を最も重要な掟として選び出したのであった。この二つを選び出すということのために、イエス自身が律法に通じていて、まさしく「先生」(ラビ)と呼ばれるのがふさわしい、しかも優れた律法学者としての姿を表したかのようである。
 しかし、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22・40)ということばは、もう律法学者の地位を超えている。イエスが律法全体と預言者の全体、つまり旧約聖書全体を見渡す視点に立って、ものを言っていることを暗示するからである。ここで思い出されるのは、ルカ24章で物語られる、エマオへ向かう弟子たちに復活したイエスが現れ、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24・27)というところである。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」ということばは、ただ律法についての教えにとどまらず、イエス自身についての自己表明、自己啓示と直結している。
 旧約において、律法というかたちで集約された神の意志の表明、神の人間に対する命令(掟)の表現は、いまや、イエスにおいてあらためて愛の掟として統合されようとしている。神への愛、隣人への愛は、イエス自身のあり方、その生涯、その行動のすべてを貫いている。それが最も重要な掟であるとして人を教えているとすれば、イエス自身が新しい掟を体現する方であり、その意味で旧約の律法を凌駕しつつ完成する新しい掟であることを意味していることになる。
 またエマオに向かう弟子たちの聖書(旧約)全体のことを説き明かしたのは、復活したイエスであったことも重要である。この愛の掟をほんとうの意味で、人類にとって新しい掟として据えたのは、十字架での死と復活を経たイエス・キリストである(第2 朗読の一テサロニケ書の内容がここで関係してくる)。
 そう考えると、この絵の中で、人々に語りかけているイエスの姿は、地上でのエピソードとして人々に教えている行為を描写するものにとどまらない。光輪を備え、高貴な衣をまとい、右手で、神の権威をもって祝福を送るしぐさをしているイエスの姿は、すでに復活の栄光をまとった主としての姿である。主が示す新しい永遠のいのちの基礎が愛の掟だということでもある。そのことばのもつ力は目の前にいる人々や後ろに続く使徒たちだけに向けられるものではない。背景の建物が象徴する人間世界、地上世界全体にまで及ぶ。神への愛、隣人への愛は、人間の文明や被造物の世界全体にとっての根源となるべきものであるという展望まで、この絵は含んでいるのではないだろうか。場面に限られない福音のメッセージの深さを意識しながら本文と絵を同時に味わっていきたい。

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