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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年11月5日  年間第31主日 A年 (緑)
彼らは言うだけで、実行しない(福音朗読主題句 マタイ23・3より)


律法学者 ファリサイ派の人々 
手彩色紙版画 アルベルト・カルペンティール
ドミニコ会 日本


 きょうの福音朗読箇所はマタイ23章1−12節。律法学者やファリサイ派の人々に対する批判のことばが続くところである。その批判は、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(3節)という点に尽きる。彼らの権威(「モーセの座についている」ことは)は認めているので、律法の権威を認めつつ、本当はそれを実行することを求めているという内容も含まれている。さらに、彼らの態度に見られる虚栄を批判し、それを通して、その中で、「あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」 (9節)、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(10節)という父である神と、キリストについての積極的な教えが語られる。わかりやすい箇所といえばわかりやすい箇所である。律法学者やファリサイ派が、見倣うべきでない生き方や態度の人として言語的に造形されているのである。
 カルペンティール師の絵(表紙)も、この言語表現の絵画化に専念している。イエスの姿はどこにも描かれない。律法学者・ファリサイ派の人々も区別なく、手前にいる二人は、本を開いているということで(当時、本当は巻物であるが)、そこに彼らの権威の根拠である律法が象徴されている。(向かって)右のラビ(律法学者)らしい帽子をかぶっている人の表情は誠実そうだが、他の三人は、やや邪悪な表情に描かれている。左の人が右耳に手を当てているのは、神のことばを聞いている様子だろうか、あるいは人に向かって何かを言おうとしている様子だろうか。いずれにしても、律法を聞き、民衆にも教えているが、「実行しない」(3節)人々だということであろう。それは、顔を並べて腰掛けているだけの姿によっても強調されている。そういえば、イエスは、いつも道で人々と応対している姿で描かれることが多い。イエスはいつも実行する人である。
 さて、この日の福音を、第1朗読のマラキの預言(マラキ1・14b〜2・2b 、8−10)との関連で味わってみよう。そこでは、祭司の務めをゆだねられたレビ族が、「道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせ」たこと(8節)を戒める主のことばが告げられる。指導すべき任務にある人の背反や逸脱を批判するという趣旨では、福音朗読とも重なる。マラキでは、その中で、より積極的な教えを告げることばも印象深い。それは、「わたし(主)は大いなる王で(ある)」(1・14b )、「わたし(主)の名に栄光を帰(すること)」(2節)、「わたし(主)の道を守(ること)」(9節)が、人の生き方として示されているのである。それとともに、「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか」(10節)と、神が父であるということの教えも含んでいる。そのもとには唯一の父である神のもと、人間は、すべて兄弟(姉妹)である(10節「なぜ、兄弟が互いに裏切り、我々の先祖の契約を汚すのか」)という教えは、きょうの福音の中で「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタイ23・8)と語るイエスの教えと対応する。
 第1朗読と福音を結ぶものは、ふさわしくない教師への批判説というよりも、唯一の父である神のもとに、人はすべて兄弟(姉妹)であるというところから来る、人間としての対等な意識、互いのへりくだりや奉仕への勧めなのだろう(マタイ23・11-12 節参照)。答唱詩編も、神にのみ信頼し、高ぶらない敬虔な心を表白する歌である。
 きょうの第1朗読から福音へと展開する教えは、普遍的である。権威的指導者に対する批判のことばは、どの時代、社会にも通じる視点である。どのような人も、社会の中で一定の責任を負っているのであれば、この批判のことばの矛先は自分にも向けられていると感じないではいられない。

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