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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年1月28日  年間第4主日 B年 (緑)
「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ1・27より)

汚れた霊にとりつかれた人をいやすイエス
モザイク 
イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀

 表紙絵は、きょうの福音朗読箇所マルコ1章21−28節のうち、「汚れた霊に取りつかれた人」に対して、「黙れ。この人から出て行け」と叱った(マルコ1・25)という場面を描くもの。汚れた霊に取りつかれた人が叫ぶというあたりの激しい動きは、足に鎖をし、周囲の人間で押さえこもうとしている様子によって表されている。ここでのイエスの姿、表情、力強く近づいてこようとしている動き、巻物を左手で力強く握る様子、神の力を及ぼそうとしている、右手のぐっと伸ばされたところの描写など、実にダイナミックな表現となっている。ここには、「権威ある者としてお教えになった」(同1・22)というときの、イエスの権威、律法学者とは異なる、いや、それを超えたイエスのあり方が、高貴な衣服によっても強調されている。
 きょうの福音朗読箇所は、そうしたイエスの権威、権威ある者としてのあり方が主題となっている。その力みなぎる教えによって人々を驚かせ(1・21−22)、その権威あることばの力で汚れた霊を追い払う。マルコの叙述で興味深いのは、この「出て行け」と言った言葉に対して「権威ある新しい教え」だ(1・27)と言った人々の反応を記していることである。しかも、その権威の証明は、イエスが命じると汚れた霊が「その言うことを聴く」ということにある。こう考えると、イエスの教えは、何か知的な内容を伝える教えというよりも、イエスが命じるとそのとおりになるという意味での、ダイナミックなことばの働きを指しているということになる。とすると、「権威ある者としてお教えになった」ことの中身は、マルコ福音書が1章14、15節で印象深く、かつ簡潔に伝えるところと合致するはずである。すなわち、イエスが「神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」と言われたことである。
 来週、年間第5主日B年の福音朗読箇所になるマルコ1章29−39節の最後、39節では「(イエスは)ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と述べられている。イエスの宣教活動を要約する叙述だが、ここでの宣教と悪霊追放は別なことを言っているのではないのかもしれない。イエスの活動を包括的に表現する「宣教」に対して、その活動の典型的な帰結である「悪霊追放」がすぐ言及されているのかもしれない。そうして続く出来事を通して、神の国の到来をイエス自らが明らかにしていくのである。マルコ福音書は、そのように、ことばと動作を一体としてイエスの宣教行動を報告していくのである。
 このエピソードが、単なる癒しの奇跡のエピソードだけではないこと、もっと大きな救いの歴史の展望の中で、イエスの宣教活動の意味を捉えなくてはならないことは、きょうの第1朗読も示している。申命記18章15−20節のいわゆるモーセの遺言説教の一部。神が預言者を立てて、「その口にわたしの言葉を授ける」と告げると言うあたりである。「預言者」とは何かを神が説き明かしているのだが、その中で預言者の権威の源は神自身にほかならないことが明らかにされる。これが、福音におけるイエスの権威の話の前提となっている。そこでの神のことば、「主の声」は、「大いなる火」とも呼ばれるように(申命記18・16参照)、神の現れそのもの、神の聖なるありようの顕現そのものである。
 福音書が叙述するように、会堂に現れたイエスは、律法学者のようにではなく、権威ある者として語ったことで、人々を驚かせた。たしかにイエスは律法学者以上の存在、神のことばをもたらす預言者に近いと言える。そのことで、第1朗読の箇所が思い起こされているが、それも、イエスを予告する一つのあり方にすぎない。イエスは、預言者以上の存在、すなわち神の子、神ご自身であることが、その生涯の完成といえる十字架と復活の出来事によって明らかにされる。福音書は、そのことの証言である。
 いずれにしても、イエスのことばとかイエスの教えと言われることは、単なる観念的内容の言語による伝達にとどまらず、イエスの身体を含めての存在全体をもって実現することすべてを意味している。そのことを表紙絵の中のイエスの動的な姿をとおして、感じ、黙想していきたい。

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