2019年7月21日 年間第16主日 C年 (緑) |
必要なことはただ一つだけである(ルカ10・42より) マリアとマルタの家のキリスト 油彩画 ヤン・フェルメール作 1655年頃 日本でも大変有名なオランダの画家ヤン・フェルメール(生没年1632~1675)の作品である。装飾絹織物職人を父としてデルフトに生まれた。生涯のほとんどはこの町で過ごしたという。1653年、カトリックの裕福な家庭の娘と結婚したときに、プロテスタントからカトリックになったと考えられている(小学館『世界美術大事典』より)。生涯で残した作品は35点ほどで、聖書の主題を描いたのは実にこの「マリアとマルタの家のキリスト」だけだという。フェルメールは、室内の情景描写にことに力を注ぎ、人物の登場は少人数にとどめ、彼らを照らす光の描写の精緻さが独特の味わいを醸しだす。 きょうの福音朗読箇所ルカ10章38-42節は、マリアとマルタの話が印象深い。短いなかで、イエスのことばを聞くことと、世話をするために思い悩み、心を乱すことの、人のあり方の対比が鮮やかに示される。マリアが選んだもの、イエスのことばを聞くことの優先性が鮮やかに示される。 このマリアとマルタのエピソードは16-17世紀に好んで描かれる画題となっていたという。これは、イエスに対する見方の変化を示している。中世前期においては、全能のキリスト、最後の審判のキリストなど、栄光のキリスト、荘厳のキリストが中心にあったとすれば、中世後期には、キリストの受難の諸場面への関心が細やかになり、苦しみ傷つくキリストのうちに、神の御子のへりくだり、罪の贖いのための受難に関心の重点は移っていった。そして、16世紀以降には、もっと、人々の中を一緒に生きていたイエスが顧みられるようになる。家の中、そして、人々と親しく交流するイエスの姿である。このフェルメールの絵のように、室内は17世紀当時の家の雰囲気、そして女性たちの姿もその時代の家庭女性を映し出している。あたかも、この時代(当時の人々にとっては現代)の生活空間の中にイエスが現れたらどうかという想像力の働かせ方なのである。 この絵の中で、マリアは(向かって左側)にいて、低い位置からイエスを見上げている。マルタはパン籠を抱えて客人イエスへのもてなしに勤しんでいる。イエスは、いかにもリラックスして家に座っている。あたかもこの家の主人のようである。マリアは、手に何ももっていない。頬杖をついているのはどうかと思わされるが、そこは、イエスのことばを深く考えていることの表現らしい。ただし緊張しているようでもない。それほど、イエスとの対応には親しみがあふれている。光の描き方に注目すると、マリアの顔もその体の前面も影になっている。イエスの身体の下の部分も同様に深く影に沈んでいる。この表現には、二人の関わり方がきわめて重要で、全体の基盤のような役割になっていることを暗示しているように思われる。 光があたっているのはマルタである。真っ白な布をかぶせられたパン籠を食卓に置こうとしている瞬間である。袖をまくしあげているところに、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(ルカ10・40)ことが示されている。イエスは基本的にマリアのほうに向いて語り合っている。しかし、顔をマルタに向けている。何かを諭しているようである。そしてこの画題全体の要となるのは、イエスがマリアのほうに伸ばす右手である。福音朗読箇所のクライマックスのメッセージに対応する。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」(ルカ10・42)である。マルタの眼差しの先にイエスの顔があり、そこから右手を伝ってマリアのほうに流れていく線がここにある。マルタの働きが否定されているわけではない。より大切なものが何かということが指し示されている。 日常の光景の中にいるイエスの頭の背後には伝統的な光輪はないが、若干の光の放射がある。近世的な光輪といえるかもしれない。暗い背景の上に浮かび上がるイエスとマルタとマリアの間に流れる線と雰囲気のうちに、主のことばを聴く態度によって裏打ちされた、もてなしの奉仕の素晴らしさが示されているようである。マリアとマルタの対比ではなく、その両方の態度の調和がこの絵の、そして、もしかしたら、イエスの教えの目指すところなのではないないだろうか。マリアのような態度が土台にあってのマルタのような奉仕が、われわれに伝わってくる、メッセージであるように思われる。 |