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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2023年8月20日 年間第20主日 A年 (緑)  
主よ、どうかお助けください(マタイ15・25)

イエスとカナンの女
エグベルト朗読福音書
ドイツ トリール市立図書館 980年頃

 この朗読聖書挿絵は、きょうの福音朗読箇所マタイ15章21-28節に対応している。ひとりの女がイエスの前にひざまずこうとしている姿勢のまま描かれている。その女の上に「カナンの人」という文字がある。イエスと二人の弟子(使徒)、そして女を描く部分のほかは広大なスペースが空いている。その中の色合いの微妙な変化が、この話への黙想を誘う。
 この福音朗読箇所は、イエスの宣教がユダヤ人に対するものから異邦人に対するものへと展開していく転機を示すものといわれる。マタイ福音書だけが、この文脈の中で、イエス自身の「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)ということばを伝えている。神の民イスラエルと、それを引き継ぐユダヤ人のもとにしか遣わされていない、という自己意識がイエスにあったことは注目される。マタイ福音書の見方では、イエスの復活の後、初めて「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)と異邦人を含む万人に向けての宣教を命じることになる。イエスの死と復活が、その決定的な始まりになったと考えられていることがわかる。そうすると、ここでのイエスとカナンの女との出会いは、異邦人宣教の始まりを予告したものだということになる。
 この「異邦人」の救いということが、きょうの聖書朗読の中心テーマであることは、第1朗読箇所のイザヤ書56章1、6-7節、第2朗読箇所のローマ書11章13-15、29-32節を通しても学ぶことができる。この日は、異邦人の救い、神の民と全人類との関係というテーマを黙想するにふさわしい。そのことを念頭におきつつ、福音朗読箇所を絵とともに味わってみよう。
 まず登場の場面。カナンの女は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(22節)とイエスに呼びかけ、悪霊に苦しめられている娘へのいやしを願う。すでにこの呼びかけがイエスへの信仰告白であることに気づかされる。「ダビデの子」という呼称のうちに、神の民イスラエルの歴史の中で待望されてきた救い主であることへの認識が示されている。同時に、この叫びを発するのはユダヤ人であるかカナン人であるかにかかわらず、救いを求める人間そのものである。
 これに対して、イエスは、上述のように、自分の使命がイスラエルの民に限定されているという意識を表明する。しかし、女は、「主よ、どうかお助けください」と再度願う(25節)。ここに信仰告白の続きがある。そして、一つの譬えを用いた会話が展開する。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。それに対して、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と(27節)。このような、主人を立てた控えめな言い方のうちに、異邦人の救い主への期待が表されている。この女の機知に富んだ答えを歓迎したかのように、イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言う(28節)。祝福ともいえることばである。すると「そのとき、娘の病気はいやされた」(同)。この受け身の言い方のうちには、いやしの主体が神であり、神によっていやされたというニュアンスが感じられる。
 このようなある意味で緊迫感のあるやりとりの中で、イエスは神と人の仲介者である救い主としての姿を現している。それも、このような女の信仰との出会いを通して生まれた、イエスの宣教の一大展開である。女のことばのうちにも神が働いている。このようにイエスとともに、そしてカナンの女の上にも神の働きがあることを考えるとき、この挿絵におけるイエスと使徒たち、そして女をも包み込む、余白の空間が重要に思えてくる。地面の側の薄い黄緑色から上の暁色のところまで、その色の濃淡が示しているのは、神自身の働き、神のいのち、神の息吹、聖霊の躍動と考えることができるのである。それは、どこまでも静謐で、しかも温かく、明るい。そこに、すべての人の救いの可能性が広がり始めている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』「年間第20主日」

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