本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2023年11月5日 年間第31主日 A年 (緑)  
仕える者になりなさい   (マタイ23・11)

弟子の足を洗うキリスト
オットー3世朗読福音書
ドイツ ミュンヘン バイエルン国立図書館 1000年頃

 福音朗読箇所は、マタイ23章1-12節。イエスが、ユダヤ教の指導者である、律法学者やファリサイ派の人々の態度を痛切に批判し、イエスの弟子たちの態度について、明快に教える場面である。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(8節)、「地上の者を『父』と呼んではならない」(9節)「『教師』と呼ばれてもいけない(10節)」と。この否定命令のほんとうの意図は、「父」は神のみ、弟子たちの「師」「教師」は、ただ一人イエス・キリストのみであるとして、弟子たちの間での競争を戒めるかのように、「皆兄弟なのだ」(8節)と教える。
 ここのイエスの話の中に「キリスト一人だけである」(10節)ということばがあるのは妙にも感じるが、ここの内容には、弟子たちが受けとめた教えとして教会自身の自覚が投影されているようにも見える。末尾の格言的なことばは、そのような印象が強い。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11-12節)。
 表紙絵は、このような福音朗読箇所の内容を踏まえて、ヨハネ福音書13章1-20節のイエスが弟子たちの足を洗う場面を描く挿絵が掲げられている。いわゆる洗足のこの場面がミサで読まれるのは、聖週間の聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサである。このため『聖書と典礼』の表紙で洗足の場面を叙述するこの箇所に対応して、洗足の絵を紹介する機会がなかなかない。そこで、内容的に近い福音が読まれる時に、洗足の場面の絵を鑑賞する機会にもしている。中世の朗読福音書の挿絵芸術がもっとも盛んだったときのこの作品。なによりもイエスの姿が中央に置かれている。左足を水盤に浸して、イエスと何か対話しているのがペトロである。その後ろで待っている弟子たちの表情も生き生きと描かれている。イエスの背後で水入れを抱えて手伝っている弟子、サンダルの紐をほどこうとしている弟子など、小さな場面にも、それぞれ動きがある。
 この洗足の意図は、ヨハネ福音書13章13-15節で明確に語られている。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。
 このイエスの意図とその実践が、絵の中では、一つの都市を背景にし、イエスのすぐ後ろは鮮やかな黄金色の壁になっている。イエスとの最後の晩餐が行われたエルサレムを思わせるという以上に、これは、神の国が一つの都市の形象をもって表されていると考えるほうがふさわしいだろう。建物の中央の塔にはすでに十字架がついている。キリスト教的な意味での「新しいエルサレム」(黙示録21章参照)のイメージ、神の国の完成のイメージと考えてよい。
 このような神の国における人々の対等かつ互いにへりくだる関係が、マタイ23章でもヨハネ13章でも、弟子たちに求められている。「仕える者になりなさい」(マタイ23・11)は、端的にそのメッセージを伝える。それは、もちろん、「互いに愛し合いなさい」の掟とも重なる(ヨハネ13・34;15・12参照)。
 ここまで考えたとき、「あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23・9)、「あなたがたの教師はキリスト一人だけだ」(同10)ということばも、それゆえに、天の父を敬い、愛し、たたえること、唯一の教師キリストに信頼と敬愛の心をもって従うことを諭し、呼びかけているものとして響いてくる。たしかに神が父としておられ、唯一の師としてイエス・キリストがいる……その恵み、その喜びを感じ取ったとき、それは弟子たちである信仰者が自らへりくだり、互いに仕え合う最大の動機となっていくだろう。答唱詩編が歌う「心静かにわたしは憩う、母の手に安らぐ幼子のように」(詩編131・2の典礼訳)という心をもって。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』「年間第31主日」

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL