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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年1月28日 年間第4主日 B年 (緑)  
「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1・27より)

汚れた霊を追い出すイエス
モザイク(部分)
イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀

 きょうの福音朗読箇所マルコ1章21-28節の内容を表現するモザイク。「汚れた霊に取りつかれた男」(23節)が、何らかの錯乱状態に陥る病の男として、その足には鎖がつけられ、身体もしっかりと押さえつけられている様子で描かれている。「汚れた霊」とは、別な箇所では「悪霊」とも呼ばれる。「汚れた」とは、宗教的な意味の表現で、神との交わりから引き離されている状態をいう。それが、身体的精神的な病の原動力と考えられている。
 イエスの右手は、この男に向けられ、神的な力(権威)を及ぼしている。それは、この男に対してではなく、この男に取りついている汚れた霊に向けられている。この部分における画面に向かって左側のイエスの主としての権威に満ちた姿と、右側の男に取りつく汚れた霊の正面からの対峙がある種の緊張感を醸し出している。汚れた霊は、その霊能で、イエスが誰であるかを知っている、ということが取りつかれた男の台詞「正体は分かっている」(24節)に示されている。そして、イエスのことを「神の聖者だ」(同)と言い表すが、これはイエスを支配しようとしているあがきのようなものにも響く。実際、イエスは、これらの霊の働きをはるかに上回る神ご自身のことばの力を示す。イエスが左手で握る巻物は、その神のことばの象徴。巻物を抱えつつ、右手を差し伸ばすしぐさのうちに、「黙れ、この人から出て行け」(25節)ということばが表現されている。それは、汚れた霊さえもそのとおりに動かざるを得なかったほどの絶対的な力(権威)である。まさしく、「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)という人々の声がイエスの神的権威を端的に語っている。
 第一朗読箇所の申命記18章15-20節では、そのようなイエスの予型(前表)と言える旧約の預言者について、主である神がモーセに語ったことばが告げられている。しかし、イエスは、預言者以上の存在であることが、人々の「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」(27節)という反応に暗示されている。そのことはこれからのイエスの宣教の歩みと受難を通して明らかにされていき、十字架のイエスを仰ぐ百人隊長のことば「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)に至る。
 表紙絵のモザイクは、この場面について、とくにイエスの力が発揮される中央部分の背景を金色で埋めつくしているのは、この行為のうちに神の支配(神の国)がまざまざと現れており、汚れた霊に対して既に勝利していることを示していると思われる。
 ところできょうの福音朗読箇所で気になることばがある。それは「教え」である。イエスは「会堂に入って教え始められた」(21節)ところ、人々は「その教えに非常に驚いた」とある。ここでは、ことばによる教え、説教のような教えを連想する。それは、すでに律法学者以上の「権威ある者」(22節)としての教え方だった。ところが、汚れた霊を追い出したあとに人々が論じ合っていう「これは、……権威ある教えだ」(27節)というときの教えは、ことばによる教えではなく、自らのことばによって汚れた霊を追い出したその行為そのものをも指している。この句は、聖書学者によれば、元の伝承にマルコが加えた句であるという。つまり、イエスが権威ある者として教える教えは、ことばによる説教や訓戒だけではなく、ことばどおり実現させる力の発揮、その行い、業(わざ)を指している。このことは、マルコが主にイエスのいやしの奇跡をクローズアップしていくことに関係している。その究極が十字架の出来事にあることは言うまでもない。キリスト教の「教え」の原点がここにある。その力(権威)を感じ取っていけるようなミサの福音朗読であることに期待しつつ、味わっていきたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第4主日

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