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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年2月25日 四旬節第2主日 B年 (紫)  
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった(創世記22・12)

「インゲボルクの詩編」
挿絵 
フランス シャンティイ コンデ美術館 12世紀

  きょうの表紙絵として、12世紀の詩編書から、第一朗読箇所となっている創世記22章1-2、9a、10-13、15-18節にちなみ、22章の叙述を反映する二段組の挿絵が掲げられている。朗読箇所で略されていく部分もぜひ聖書本文で見ておいてほしい。
 上段は、アブラハムがイサクを連れて、神に命じられた場所に向かっていく場面である。神から命じられた山に登り、息子イサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさい(22・2参照)と言われ、アブラハムはろばに鞍を置き、二人の若者(絵では二人の青年と一つの壮年男性)とイサクを連れて、神に命じられた場所に向かう。これが上段に描かれる場面である。命じられた場所に着いた、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ(絵では、祭壇の上の薪は、火の描写によって簡略化されている)、そして「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとする(22・10)。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた」(22・11)。まさにこの瞬間を描くのが、下段の絵である。天使を通して神は、アブラハムが神を畏れる者であることを認める。自分の独り子である息子すら、神にささげることを惜しまなかったがゆえである(22・12参照)。アブラハムが神に従う人、信仰の人であることが、神への従順による息子の屠りという決定的な瞬間でドラマチックに明らかにされるのである。この感動のゆえに、この場面は多くの造形表現を生み出している。
 アブラハムによるイサクの奉献の出来事は、さまざまな解釈の可能性がある。一方では、アブラハムを信仰によって生きる者の模範として語るヘブライ書のような見方である(ヘブライ11・17-19参照)。実際、第一朗読箇所の末尾「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記11・18)を読むと、アブラハムを模範として、徹底して神に従う者には祝福が約束される、というメッセージを読み取ることができる。
 それに対して、キリスト教的な解釈の主流は、自分の「独り子」を惜しまずにささげようとしたアブラハムのうちに、独り子を人類のあがないのためにささげられた御父のみわざの予型を見る。きょう(四旬節第2主日B年)の第二朗読箇所と福音朗読箇所も、ひとまずは、この解釈を連想させる。福音朗読箇所は、四旬節第2主日共通のイエスの変容の箇所で、それを B年の原則でマルコ福音書から読む(マルコ9・2-10)。最初の受難予告後、自身の身の変容をもって死と復活の栄光を予示する場面であるが、ここに響く神の声「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)によって、愛する独り子を死の定めのもとに渡そうとしている神のみ旨を考えさせている。第二朗読箇所であるローマ書8章31b-34節はまさに、そのような御父である神のみわざを思い起こさせ、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(32節)と、神自身の徹底した行いへの信頼を呼びかける。
 結局は、すべての朗読箇所は、信じることを呼び求める内容であり、それが四旬節のメッセージとされている。福音朗読箇所では、より直接にキリストへの信仰が、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)と呼びかけられつつ、その根拠として、神自身による独り子の奉献が暗示されていることになる。信仰を呼び招く方の行為も、信仰する人の行為も、我が子の奉献というところに集約されていることになる。ここに神自身の“いのちがけ”の決意と行為があることに気づき、我々も、いのちの限りまでのぎりぎりの献身が求められていることを、きょうの三つの聖書朗読を通して受け止めるべきであろう。アブラハムとイサクの絵のうちに、神と我々との出会いと対話のヒントがある。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』四旬節第2主日

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