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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年7月24日  年間第17主日 C年 (緑)
求めなさい。そうすれば、与えられる  (福音朗読主題句 ルカ11・9より)


祈る人
  石棺彫刻
  ローマ パラッツォ・サンセヴェリーノ所蔵 3世紀

   

 祈りについてのイエスの教えを間近に聞きながら、祈りについて、この祈る人(オランス)の図を観照しながら考えてみよう。一般に、祈る人の図は、祈る教会の姿とも、死後の救いを願う人々の魂の造形ともいわれる。ほとんどの場合、祈る人は顔を上に向け、また手を開いてしばしば上に向けている。この素朴な表現ともいえるオランスの浮彫りの場合、さらに顔と手の大きさが強調されている。
 我々は、祈りというとどのような姿勢を思い浮かべるだろうか。もしかしたら、目を閉じ、心を内に向けている、わりと暗い表情を連想するのではないだろうか。さらに、ひざまずいている姿勢、または手を合わせている姿勢。それにも指を揃えて伸ばし、両手の掌をぴったりと合わせる合掌か、または両手の指を互い違いに組み合わせながら手を合わせる姿勢があるだろう。我々が受け継いだ伝統から考えられる祈りの姿勢は、そのようなイメージが多いのではなかろうか。
 古代教会の芸術(カタコンベ壁画や石棺彫刻)にみる祈る人は、そのような伝統と突き合わせて考えてみたら、と珍しいものなのではないだろうか。顔は天に向かい、手も開いて上に向かう。しかし、ここには、手を上げて祈るという伝統も、古代における通例であったらしいと言ってしまえばそれで終わるかもしれないが、姿勢の意味を考えるなら、ここで考えられている祈りとは、まず、天に向かうもの、天におられる御父、またその右の座におられるキリストを仰ぐということを基本にしている。
 大きく開かれた手。手は人間の働きの象徴であり、どちらかというと能動的行為を意味すると同時に、積極的にものや相手を受け入れ、受け止める姿勢を象徴することができる。また手を開くということは、心を相手に開放すること、自分の中には何ももっていないということをあからさまに示すという意味もある。敵に対する降服のしるしにもなることを思い出したい。
 キリスト教芸術が発生した当初、人は、目に見えない神を描くために、しばしば天から差し出される手(右手)をもって表現した。人間の世界からは彼方にある方が、それでも人間の世界に働きかける、恵みの力を及ぼされる……という信仰の具象化である。神を「手」で考える伝統のあったなかで、このように祈る人間の「手」もまた神に開かれ、神からのものを願い求め、そしてそれを受け止めようとしているのである。このような姿勢が、ほんとうに当時、礼拝集会の中で行われていたかはわからない。それは、空間の広さにも関係しているだろうし、ひょっとしたら、各民族の祈り方の慣習にも関係しているだろう。ここでは、むしろ、祈りの心を表現する造形として味わうことにして、何よりも、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と教えてくれた、本日の福音の中のイエスのことばを味わう糧にしたい。
 このことばほど、我々を力づけてくれるものはない。生き方を前向き、積極的な方向へと導く力に満ちているのである。そのイエスにはっきりと顔を上げ、向かい合い、自分たちの願い求めるものを自分自身でも見きわめて、しっかりと神に向けて表していくように、この作品の骨太の造形は、たえず励ましてくれるのではないだろうか。

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