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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年8月21日  年間第21主日 C年 (緑)
狭い戸口から入るように努めなさい (ルカ13・24より)


主の変容と主の晩餐を組み合わせた挿絵
  『フロレッフの聖書』
  ロンドン 大英博物館 12世紀半ば
   

 きょうの表紙絵に関しては「どうして、主の変容と主の晩餐(最後の晩餐)の絵が掲げられているのか、福音朗読と直接の関係がないではないか?」という質問が寄せられることを覚悟している。きょうの福音朗読ルカ13章22−30節につなげるなら、たとえば、福音朗読主題句「人々は、東から西から来て、神の国で宴会の席に着く」をモチーフにした絵があってもよいだろう。今回は、むしろ、朗読箇所の冒頭に出てくる内容を意識した。イエスがエルサレムへ向かって進んでおられたとき、「『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい……』」(ルカ13・23−24)。マタイの並行箇所7章13節では「狭い門から入りなさい」とあり、かつての日本語訳「狭き門より入れ」を思い起こさせる箇所である。
 広い意味では、この言葉も、前の主日年間第20主日と同様に、神の国への決断を求めるイエスの呼びかけである。そこで、イエスの弟子たちへの教えがいちだんと深まっていく出発点にある最初の受難予告(ルカ9・21−27)に続くイエスの変容の出来事(9・28−36)と、その後のエルサレムへの道の終盤、十字架での死の直前にある最後の晩餐の絵を二つ組み合わせたこの聖書挿絵に注目した次第である。
 イエスが受難から復活の栄光に移られることを予示する出来事といえるその変容の出来事は、神の計画の中でのその受難のもつ意味深さを悟らせるために、三人の代表的な弟子ペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを同行させて示したものだが、雲に包まれているうちの出来事であったせいか、この弟子たちのだれもがただちにはっきりと変容の意味を悟れたわけではない。絵は、変容の光に驚いている弟子たちの様子を強調するが、このような、ただちには悟れない弟子たちの姿は、イエスの真実、神の計画の神秘に至る、いわば戸口の狭さを告げているようではないだろうか。
 もう一つ、最後の晩餐は、イエスが自分の体と血をパンとぶどう酒をもって示し、主の食卓となる典礼の根源をおいた出来事であるが、福音書が関心をもって物語るのは、最後の晩餐と同時に進行する、イエスに対する裏切りの事実である。最後の晩餐を描く絵は、聖体の制定を表現しているというよりも、ユダの裏切りを予告する食事として描いているものが多い。この絵も、ヨハネ福音書13章21−30節の叙述を踏まえて「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人(=裏切る人)だ」(ヨハネ13・26)というあたりを描き出している。じつはこの最後の晩餐は、ルカ福音書(22・31−34)においてもどの福音書においても、ペトロの離反(イエスに対する否認)を予告する場でもある。裏切ったことで知られるユダだけでなく、後に使徒のかしらとなるペトロさえもイエスを否認するに至る。受難物語のもつメッセージの一端でもあろう。
 イエスに従うこと、神の計画の神秘に近づくことは、これほどに狭い戸口から入るようなものなのではないだろうか。そのように神の国への招きにこたえる道は、我々にとって試練,精錬であるかもしれない。それでも、この挿絵が描く主の変容も最後の晩餐も、それ自体、立派に、イエスが神の右の座にあり、旧約のモ−セやエリヤをも従える主として治めていることを十分に表現している。この目的地への約束をしっかりと受けとめ、信仰をもって従うとき、イエスの教えの一つひとつは、我々にとって神による「鍛練」である。第2朗読のヘブライ書(12・5−7、11−13)の箇所のテーマにもなっている事柄である。
 ヘブライ書は語りかけている。「およそ鍛練というものは……後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12・11)。

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