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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年11月20日  王であるキリスト C年 (白)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです(コロサイ1・14)


十字架のキリスト
  ミサ典礼書挿絵
  スペイン トルトサ司教座聖堂 12世紀
   

 きょうの福音朗読箇所(ルカ23・35−43)は、ルカが記す十字架のイエスと、同じく十字架にかけられていた二人の犯罪人が登場する場面。イエスをののしった一人の犯罪人に対して、もう一人の犯罪人がそれをたしなめ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。彼に対するイエスの言葉は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というくだりである。ののしる人々の口に上る「ユダヤ人の王」「メシア」の真の意味について、この犯罪人は、はっきりと知り、神の国(御国)の到来、すべての主としてのイエスについて信仰を宣言し、それをもって、この男はイエスに受け入れられている。楽園にすでに一緒にいると言われるほどまでに。こうして、この十字架という処刑場はすでに楽園になっている。逆説というか、目に見えない真実の告知であることがわかる。
 このような場面に対しては、イエスが二人の犯罪人とともに十字架に架けられている絵が内容的にはふさわしいが、今回は、ヨハネ福音書(19・26−27参照)に背景として描かれる十字架磔刑図の主流のタイプにした。十字架の右側に弟子(「愛する弟子」=使徒ヨハネとされる)と左端にマリア(ヨハネ19・26−27参照)を描くものである。左上の太陽、右上の月もその定番要素。もとは、十字架の死のときに「全地が暗くなり」とある記述(マルコ15・33ほか並行箇所参照)を踏まえ、顔を隠す太陽と月を描くものがあったが、ここは、天から十字架の出来事を見降ろして、神妙な表情をしているように描かれている。太陽がラッパを抱えているが、黙示録で言及される神の救い計画(神の秘められた計画)の成就を告げる天使の第七のラッパ(黙示録10章、11章参照)を思い起こしてもよいのではないか。
 十字架のイエスの姿に注目しよう。両手、両足、そして脇腹から真っ赤な地が流れ出ている。そうではあっても、イエスの体は比較的真っ直ぐで、その表情にも強い苦痛は示されない。目は開いているようでもあり、これから閉じられようとしているのか、あいまいである。死にゆくイエスを描いているようでありつつ、その身体は弱々しくもなお尊厳に満ちているといえないか。
 右側の使徒ヨハネは、体をというか頭を下げながらも顔を正面に向け、イエスの足元を両手と左手で指し示しながら、「見よ、主を」とでもこちらに訴えているようでもある。。左側の母マリアも顔を正面に向けながら、両手を合わせてひたすら十字架のイエスを拝んでいる。おそらく、この絵の中のヨハネとマリアは、イエスを主として、我々に訴えかけている。一方は、イエスをあかしし、他方は、イエスを礼拝している。これはまさに、教会そのものが行うことがら、すなわち信仰のあかしと礼拝を象徴している。
 背景は、左側が濃紺、右側が少し明るい紺色と濃淡を付けられていることで、闇の世界にも奥行きが感じられ、そこに、すべての登場者が明るい光を浴びて、浮かび上がっている。余白に4点描かれた花のような模様も創作の工夫なのだろう。画面全体に明るさと華やかささえ感じられる。多少の図案化、デザイン化の進展といえないこともない。しかし、これによって、十字架の死が永遠の命の始まりとなるという、救いの神秘が表現され、その意味を伝えようとしている気持ちがよく感じられてくる。
 さて、この2016年の典礼暦の最後の主日となった「王であるキリストの祭日」をもって、昨年12月8日から始まった「いつくしみの特別聖年」が閉幕する。きょうの第2朗読のコロサイ書1章12−20節では、十字架のイエスのことが念頭に置かれつつ「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(14−15節)と述べられる。イエス・キリストを「父のいつくしみのみ顔」(教皇フランシスコ、大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」参照)として確認してきた、この一年の意味を、この十字架のイエスの姿を通して心に刻んでおきたい。

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