昔、次のような話を聞きました。戦後の貧しいある母子家庭のことです。お父さんが戦争で亡くなり、お母さんは二人の子どもたちのために一生懸命働いて何とか生活していました。 クリスマスの日、子どもたちが夕食で目にしたものは、今まで食べたことのないおいしそうなカツ丼でした。「お母さん、どうしたの!」、お母さんは「きょうはクリスマス、イエス様が私たちのところに来たお祝いの日だから」。子どもたちは大喜びで食べ始めましたが、ふとお母さんのところにはカツ丼が無いのに気がつき、「お母さんの分は?」と聞きます。お母さんは、「私は先に食べたのでもういいの」と答えました。その後、子どもたちは急に黙って泣きながらカツ丼を食べました。涙でしょっぱくなった忘れることのできないカツ丼を。 クリスマスには、このような出来事が世界中で起こります。私のよく知る方でしたが、以前、「せめてこの日だけは、ひとりぼっちでさみしい思いをしてほしくない」と、クリスマスには必ず一人暮らしの高齢者を訪問する人がいました。アメリカでは、あるグループがクリスマスの日に刑務所にご馳走を持っていき、終身受刑者たちにふるまっていました。人間の優しさに触れた受刑者たちは涙を流していました(ドキュメンタリー映画「Lifers ライファーズ――終身刑を超えて」より)。また、第一次世界大戦の時にはクリスマスの夜、銃を置き、敵味方なく交流したことさえありました。 「せめてこの日だけは」という思いには、この日だけで良いということではなく、それがずっと続いてほしいという願いが込められて、だれもが人として大切にされ、平和で幸せに生きられる世界をみんなで作っていこうと心に決める日でもあります。 神のやさしさがこの世界にとどまった日。この日だけでなく、これからいつまでも一緒にいると約束してくださった救い主の誕生を祝いながら、争い苦しむ世界の中で、すべての人の上に平和があるようにと祈りたいと思います。(『聖書と典礼』2023年12月25日) 『聖書と典礼』主の降誕(夜半のミサ)(2023年12月25日)表紙絵解説 |