新年のご挨拶を申し上げます。能登半島地震により被害に遭われた皆さま、ご家族の方々に謹んでお見舞いを申し上げます。 新しい年を迎えることができたことを、まず何よりも神に感謝いたします。今日までいのちが保たれてきたことは、いのちの源である神の恩寵を受けたからに他なりません。そして、勇気と希望をもって、展開していく新年と人生の浮き沈みに挑んでいくことができるようにお祈りいたします。 さて、一月一日は世界平和の日です。危機に瀕する世界の平和を祈り求めて、本誌の年間テーマである「神と他者へと開かれる」という道を探りながら、争いの文化に傾きがちな社会から共存するケアの文化、共に暮らすことへと導く霊的な識別による生き方について考察していきます。 去年は何といっても争いの多い一年でした。武力紛争の拡大、悲劇的な事件は後を絶たず、ネット上での中傷や脅迫などが少なくありませんでした。それに伴って、国内外問わず、社会に不安定感や苦しみ、不正などがもたらされています。無差別に虐殺されていく民間人・子どもたちの姿を目にして胸が痛まずには居られません。一部を除いた世界のリーダーが、それを見て見ぬ振りをし、偽善者のように指を一本も動かさず、悲しみに暮れる子どもたちに共感する声さえも上げないということに非常に驚きました。もう少し踏み込んで言うなら、多くの人々は、無償の愛を理解しがたく、自らの利益や金銭などにかかわること以外はあまり関心を示していないように見受けられます。一年の始まりにあたり、こういった現状、戦争の愚かさと平和の尊さについて改めて考えさせられます。今年は、そのような無関心や苦しみの果てしない連鎖が止められ、神と密接に交わり他者へと心を開き、共に歩める希望に満ちた一年となることを願ってやみません。 人生は闘争だと言われます。ただその要因の一つにあるのは、ロシアの作家レフ・トルストイが、『戦争と平和』の中で指摘したように、利己的な幸せの追求です。トルストイは、人が自分だけの幸せを求めれば求めるほど、同じようなことを求める人との闘争が生じてくるとし、「人間の幸福を妨げるのは、個人的な幸福を求める存在同士の闘争である」と言います。 しかし、一人ひとりが、他者の幸せを先に思えば、必ず願う幸福が自分にも帰ってきます。人間はまず他人を愛する、次に他人から愛されるようになる、そしてこの無限の連鎖の中に自分の幸福も含まれているのです。それは隣人愛とも言います。ありのままの自分を認め、そして自分と異なる他者を理解し、受け入れていくことで人とのつながりは深まっていくでしょう。 聖書ではカインによる兄弟アベルの殺人事件が語られています。主が「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とカインにその責任を問われた時、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)と答えます。その結果、彼は呪われる者となってしまいました。その話では嫉妬と怒りによる罪深さが表現されている一方、注意深く読んでいくと、神、そして他者との人間同士の関係の断絶という別の側面も浮かび上がります。「わたしは弟の番人でしょうか」という言葉は、今、他者との関係における自らの責任を放棄して、個々が孤立して形成されている「無縁社会」に響き渡っています。今も、神は、「お前の兄弟姉妹は、どこにいるのか」と聞かれます。それに対して、私たちはどう答えるでしょうか。カインの答えの深層には、私たちは互いを守り合う「番人」であることが無意識に表れています。それに気づくことこそが、いじめがはびこることを抑え、行き過ぎた個人主義に歯止めをかけるための秘訣です。 私たちは、神と他者との関係の中で生きる被造物として創造されました。互いに顔を背け合うのではなく、私たちの本来のあるべき姿、すなわち他者と共にいたわり合い、ケアし合い、共に苦しみ、喜ぶという共通の連帯的な責務を果たしてまいりましょう。新年のご挨拶を申し上げます。 新しい年を迎えることができたことを、まず何よりも神に感謝いたします。今日までいのちが保たれてきたことは、いのちの源である神の恩寵を受けたからに他なりません。そして、勇気と希望をもって、展開していく新年と人生の浮き沈みに挑んでいくことができるようにお祈りいたします。 さて、一月一日は世界平和の日です。危機に瀕する世界の平和を祈り求めて、本誌の年間テーマである「神と他者へと開かれる」という道を探りながら、争いの文化に傾きがちな社会から共存するケアの文化、共に暮らすことへと導く霊的な識別による生き方について考察していきます。 去年は何といっても争いの多い一年でした。武力紛争の拡大、悲劇的な事件は後を絶たず、ネット上での中傷や脅迫などが少なくありませんでした。それに伴って、国内外問わず、社会に不安定感や苦しみ、不正などがもたらされています。無差別に虐殺されていく民間人・子どもたちの姿を目にして胸が痛まずには居られません。一部を除いた世界のリーダーが、それを見て見ぬ振りをし、偽善者のように指を一本も動かさず、悲しみに暮れる子どもたちに共感する声さえも上げないということに非常に驚きました。もう少し踏み込んで言うなら、多くの人々は、無償の愛を理解しがたく、自らの利益や金銭などにかかわること以外はあまり関心を示していないように見受けられます。一年の始まりにあたり、こういった現状、戦争の愚かさと平和の尊さについて改めて考えさせられます。今年は、そのような無関心や苦しみの果てしない連鎖が止められ、神と密接に交わり他者へと心を開き、共に歩める希望に満ちた一年となることを願ってやみません。 人生は闘争だと言われます。ただその要因の一つにあるのは、ロシアの作家レフ・トルストイが、『戦争と平和』の中で指摘したように、利己的な幸せの追求です。トルストイは、人が自分だけの幸せを求めれば求めるほど、同じようなことを求める人との闘争が生じてくるとし、「人間の幸福を妨げるのは、個人的な幸福を求める存在同士の闘争である」と言います。 しかし、一人ひとりが、他者の幸せを先に思えば、必ず願う幸福が自分にも帰ってきます。人間はまず他人を愛する、次に他人から愛されるようになる、そしてこの無限の連鎖の中に自分の幸福も含まれているのです。それは隣人愛とも言います。ありのままの自分を認め、そして自分と異なる他者を理解し、受け入れていくことで人とのつながりは深まっていくでしょう。 聖書ではカインによる兄弟アベルの殺人事件が語られています。主が「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とカインにその責任を問われた時、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)と答えます。その結果、彼は呪われる者となってしまいました。その話では嫉妬と怒りによる罪深さが表現されている一方、注意深く読んでいくと、神、そして他者との人間同士の関係の断絶という別の側面も浮かび上がります。「わたしは弟の番人でしょうか」という言葉は、今、他者との関係における自らの責任を放棄して、個々が孤立して形成されている「無縁社会」に響き渡っています。今も、神は、「お前の兄弟姉妹は、どこにいるのか」と聞かれます。それに対して、私たちはどう答えるでしょうか。カインの答えの深層には、私たちは互いを守り合う「番人」であることが無意識に表れています。それに気づくことこそが、いじめがはびこることを抑え、行き過ぎた個人主義に歯止めをかけるための秘訣です。 私たちは、神と他者との関係の中で生きる被造物として創造されました。互いに顔を背け合うのではなく、私たちの本来のあるべき姿、すなわち他者と共にいたわり合い、ケアし合い、共に苦しみ、喜ぶという共通の連帯的な責務を果たしてまいりましょう。 『聖書と典礼』神の母聖マリア (2024年1月1日)表紙絵解説 |