私は長年、短期大学でキリスト教人間学の科目を担当し、聖書の人間像やキリスト教の「愛」と「救い」、人の生き方の選択と成長などのテーマを扱ってきました。 そこで出会っている学生たちは、「人間の命は、存在するだけで尊く…(中略)…、自分は、自分であるというだけで生きる価値がある」(片柳弘史著『祈るように生きる マザーテレサと共に』ドンボスコ社 二〇一五年、128頁)という表現に感動します。それは、今の日本には自分の存在を肯定できず、自己不全感を抱える人が多いことを示すのかもしれません。 今日の福音をマタイ福音書19章16-30節と併せて読むとき、善良に生きることができていても満たされない思いに悩む若者が、イエスに自分の生き方はこれで良いのかと尋ねに来ている様子が目に浮かびます。それは、自分で立てた目標に向かって熱心に取り組む姿にも見えますが、原文に近い訳で見ると、彼の質問は「私が永遠の命を受け継ぐには、私は何をしたら良いでしょうか」であり、自分のことで精一杯な様子に感じられます。 イエスがそのまなざしに慈しみを湛えながらも彼に指摘したのは、「あなたが喜べないのは他者への視点が欠けているからではないか」ということではないでしょうか。「神の国」は、その若者が視野の外に置いている貧しい人や罪びとと《共に》受け継ぐ恵みです。イエスは「今まで掟を守って生きて来られたことを神様があなたを受け入れてくださっているしるしと信じて、今度は同じ社会の中で苦しむ人々のために力を尽くし、神の愛に倣う努力をしてみなさい。そうすれば神様と出会える」と伝えたかったのではないでしょうか。 福音書は、人生の大きな方向転換を迫るイエスの言葉に悲しみ、その場を離れてしまう人を描いています。しかし、今の日本でそのままで終われば、福音宣教は進んでいかないと思います。むしろ、自分の限界を知った人が再びイエスとの対話に戻り、自分自身の存在を肯定してくれているイエスを知り、その愛に信頼して一歩前に踏み出せるよう同伴することが必要なのだと思います。 『聖書と典礼』年間第28主日 C年(2024年10月13日)表紙絵解説 |