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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年6月18日  キリストの聖体 A年 (白)
パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です(一コリント10・17より)


主の食卓
  北シリアの典礼用福音書
  大英博物館(12世紀)


 イエスと十二使徒による最後の晩餐をモチーフにしたものである。有名なレオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐とはまるで違った描き方である。児童画を連想する向きもあろう。ここでは、イエスは使徒たちの中央ではなく、左端に立っている。使徒たちは真上の視線で描かれ、上のほうにいる者は(脚が見えないので)座っているかと思われるが、右や下の者たちは裸足が見えるように立っていると考えられる。すると全員立っているのではないかと思われる。立食のような光景なのだろうか。どうもはっきりしない。イエスが左手に抱えている四角い物は簡易椅子という解釈もあるが、本なのかもしれない。
 ただ、いずれにしても、この絵の中心は、真ん中の円形の食卓である。二重の円をなし、そこにさらに二重の円の形をした皿が12枚載っている。大・中・小・最小という4つのランクの円が不思議な無限感を醸し出すのである。この食卓のほぼ真円形を中心に、使徒たちが一つになって囲むようにしたところに、はっきりとした意図が感じられる。それは、表紙に掲げた一コリント書のパウロの言葉「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」(一コリント10・17 )と響き合う。使徒たちの描き方がそれぞれかなり個性的であるところに、多様性をもった一致のエネルギーが充満しているように感じられる。
 ただし、この絵の中で、食卓の中央に異様に大きく描かれているのは、小羊の肉であろうと解釈されている。最後の晩餐は、ルカ福音書がはっきりとこれを「過越の食事」(ルカ22・8)と記すほどであり、過越祭で祝われる食事だった可能性もある。そうであれば、小羊の肉を食べる慣習が前提となるので、それをここで描いたと理解できる。そしてこれを指し示すイエスの右手の強いしぐさは格別である。自分が過越の小羊であることの暗示があるのだろう。イエスの右手も「これはわたしの体である」(マタイ26・26)という響き、あるいはきょうの福音朗読箇所にあるヨハネ福音書の「わたしの肉はまことの食べ物、……」(ヨハネ6・55)といった自己啓示の意味合いを帯びているに違いない。普通なら、パンを象徴的に描くところなのだが、ここで小羊の肉を描いているというやや珍しい表現法にも、それなりの深い意味があると考えられる。
 この最後の晩餐で制定されたのが、キリスト者がイエスを記念し続けるためのパンとぶどう酒の杯による食事、いわゆる「主の晩餐」。現在のミサ、感謝の祭儀である。この絵は、我々が参加するミサ、ともに囲む主の食卓の意味を示す光景の図といってもよい。
 ちなみに、この円形の食卓に関してはもう一つの解釈がある。「日輪」すなわち太陽を表しているというものである。これに従うと、さらに連想がめぐる。キリストは救い主として、闇の中に現れた光、「義の太陽」(マラキ3・20)と理解され、太陽としてのキリストというイメージは、受難と死を通して復活へと進んだ主の過越の出来事とも関連づけられ、日曜日(=太陽の日)としての主日の神学につながり、さらにキリストの誕生と関連づけられて降誕祭・公現祭の形成に関連するようになったのである。日が昇る方角の東がキリストの方角とされ、東を向いて祈ることが習慣となった時代もある。4世紀に建築された洗礼堂では、西を向いて悪霊の拒絶をし、東を向いて信仰宣言を行うという象徴的な儀式が重んじられたこともあった。
 余談だが、実際に我々のミサでは、この絵のようには、自分たち自身を上から見下ろすことはできない。平面にありつつ、群れをなしてキリストに向かい、その体を受ける。自分たちが相互に、果たして十分に一致しているかどうかはわからない。それは目に見えるものではなく、キリストから、あるいは天におられる父なる神からしか見ることのできないもの、確認することのできないものだろう。一致の確証は神のまなざしのもとにしかない。我々からは、一致はあくまで、祈られるものであり、待ち望まれるものである。そうであれば、キリストと父なる神により頼み、一心に祈り、待ち望みたい。

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