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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年11月26日  王であるキリスト A年 (白)
人の子はその栄光の座に着く。そして、すべての国の民をより分ける(福音朗読主題句 マタイ25・31−32より)


羊と山羊を分けて裁くキリスト
モザイク、ラヴェンナ 
サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀


 このモザイクは一見して、きょうの第1 朗読マタイ25章31−46節の話の場面だとわかるだろう。イエスは、「人の子」の来臨によって行われる最後の審判のことを語る。それは、「すべての国の民」を「羊飼いが羊と山羊を分けるようにより分け」(以上マタイ25・31−33参照)、羊にたとえられる右にいる人々への話、山羊にたとえられる左にいる人々への話がそれぞれなされる。それは、あたかも判決のような言明である。あくまでここでの羊と山羊は、譬えのイメージであり、それ自体は、きょうの第1朗読で読まれるエゼキエル書(34・11−12、15−17)にも前提がある。
 表紙に掲げたモザイクが面白いのは、玉座に座すキリストを中心にまさしく羊と山羊を描いていることである。その意味では、人類への裁きというよりも、その裁きのイメージを具象化して、中心的に描いているのは、イエスが「人の子」と予告した、キリスト自身の権威やその尊厳ではないかと思われる。
 キリストの右側(こちらから向かって左側)に描かれるのが羊、反対側の山羊よりも少し高い位置に置かれているのは、キリストの祝福を受ける存在であることを示すものであろう。色の白さもそのような祝福された存在の意味があるのかもしれない。
 ここで、ほめられているのは、「人が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれた」(25・35 参照)人たちのことである。それは、実はイエスに対してしたことであったのだ。これら、困っている人(最も小さい者の一人)に対する援助の行いは、イエスに対しての行いだったのだ(25・40参照)というところに話の味わいがある。主の左側にいる人々は山羊にたとえられるが、このモザイクの中では(向かって右側)全体として青く、おそらくは闇の中に置かれた存在のように描き分けられている。
 隣人愛の行いをした人は、用意されている国を受け継ぎ(25・34参照)、永遠の命にあずかる(25・34参照)、しなかった人は永遠の火に入り(25・41参照)、永遠の罰を受ける(25・46参照)。マタイ福音書が伝える話は、そのメッセージも明確で、右と左、羊と山羊との対照、判決的なことばの構成も見事に対照関係があり、覚えやすい。おそらく、覚えやすいイメージを与えることで、多くの人の記憶に残り、語り継がれることが意図されていたのだろう。その対照的構成を、このモザイクは、さらに色彩的・造形的に表しているわけである。こういう構図は、以後のキリスト教美術で最後の審判を表現する定型となっていく。ゴシックの大聖堂の門にこのように日頃の行いを省みることを訴えるような玉座のキリストがいる。その左右には、いわゆる天国が約束された人々と地獄へと呪われた人々の姿が描写されるというわけである。
 そのような、二つの相反する態度を対照させて語るという教え方は、イエスの譬え話にもよく出てくるのであるが、それを真に受けると、あまりに簡単な対立図式に終始してしまい、自分の行為が良かったかどうかの見分け基準、一種の新たな律法となってしまいかねない。ヨーロッパで、神が怖い神、裁きの神のようにイメージされるきっかけは、そこにも一因があったのだろう。
 ここの話の一つの核心は、先もいったように、最も小さい者の一人(例示されているようなさまざまな困難にあっている人)を助けることは、実際にはイエスに対する行いなのであるということ、いわば隣人愛のうちに神への愛、主への愛が実現されるというところであろう。
 このモザイクも、左右に分けられた存在の描き方が中心なのではなく、玉座にいるキリストを仰ぐこと、そのうちに、神のまなざしがあることを感じることのほうが重要である。裁きの主というより、我々の小さな行いのすべてに目を配っている神のまなざしこそが、福音においてもこの絵においても味わうべきポイントである。

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