本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年8月19日  年間第20主日 B年 (緑)
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である(福音朗読主題句 ヨハネ6・55より)

十字架のキリスト
エマイユ装飾 ミュンヘン 
レジデンツ博物館 12世紀

 きょうの福音は、ヨハネ6章51−58節。初めの51節の中で、イエスは自らを「天から降って来た生きたパンである」と再度あかししたあと、今度は「わたしが与えるパン」すなわち聖体についての話へと移っていく。すなわち、パンとぶどう酒の杯を念頭に置くかたちで、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(54−55節)と告げるのである。「肉を食べる」も「血を飲む」もかなりショッキングな語り方をあえて使っているようである。ここの箇所は、主の晩餐の制定を語る1コリント書(11・23−26)や共観福音書(マタイ26・26−29;マルコ14・22−25;ルカ22・14−20)の箇所と併せて、聖体の意味を説き明かすことばとして教会は受けとめている。「わたしの肉」はそこでは「わたしの体」と呼ばれているが、本質的には同じことであると考えられる。
 表紙絵は、これらを含めて、人々の贖(あがな)いのために自らの命をささげたイエスのことを黙想する意味で、十字架磔刑の図を掲げている。直接にはヨハネ福音書19章16−37節と対応している。金色の地のうえに浮かび上がる十字架の青が印象的である。その上のイエスの肌の色とのコントラストもまた鮮やかである。磔にされたイエスの両腕のやや下がっている感じも絶妙である。身体も屈曲し、力が失われて死につつある様子が動的に描かれている。この日の絵にした一つのポイントは、脇腹から流れ出ている血とそれが注がれている器である。これらを通して、福音が語る「わたしの肉」と「わたしの血」がよく表現されているといえる。流出は、ヨハネ19章34節で出てくる「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」に基づく。とはいえ槍で突く兵士が描かれているわけではなく、水まで描写されているわけでもない。むしろ、聖体である御血の意味を示すためにデフォルメされた表現といえる。
 イエスの十字架の(向かって)左側で悲嘆にくれている女性は母マリアである。その後ろにいるのは、その他の女性(「母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」ヨハネ19・25参照)を一人の女性で代表させて描いているものと思われる。(向かって)右側には使徒ヨハネ(「愛する弟子」)である。この場面が、ヨハネ福音書19章26−27節を表していることは、母マリアと使徒ヨハネの上の文字が示している。母マリアの上にはギリシア語で「御覧なさい。あなたの子です」、使徒ヨハネの上には「見なさい。あなたの母です」とある。こうして、イエスの十字架のもとで教会が誕生することをあかしするといわれる出来事の意味が明記されている。
 はぎ取られた衣をくじ引きでだれのものとなるかを決めようとしている兵士たちの様子が十字架の下に描かれている。ヨハネ福音書(19・24)は、この行為が詩編22・19に基づくものとする。この詩編は、苦難に遭う主のしもべが「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22・2)と叫ぶなかで、その苦難の一つとして「衣を取ろうとしてくじを引く」と語られるところである。このあたりはマルコ15章24節と34節を参照することができる(マタイ27・46も参照)。そこでは、イエスは息を引き取る前に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と、詩編22・2 の言葉を叫んだとされているからである。兵士たちのここでの行為は、神の計画に従ったものである。下の3人の兵士たちの存在は、人間の愚かさを代表していると同時に、それらを通しても神は自らの計画(救いの計画)を実現しようとしているということを示しているのだろう。加えて、十字架の横で「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立って」いる姿も見える。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)と隊長が言ったことが描かれているのだろう。
 もう一つ十字架の下に白い顔が見えるが、これはイコンの磔刑図にしばしば描かれる頭蓋骨(されこうべ)にあたる。これはいうまでもなく、十字架刑の場所がゴルゴタ(「されこうべの場所」であったという(マルコ15・22;マタイ27・33;ヨハネ19・17。ルカ23・33も参照)福音書の証言をもとにしているが、同時に、イエスの十字架での死が人間の死すべき定めに打ち勝ち、永遠の命の始まりとなったという、十字架の神秘を物語るものとなっている。
 「わたしの肉、わたしの血」とは十字架のイエスを示すものであり、それが聖体の秘跡の究極の意味にほかならないということが、このような福音書とこうした磔刑図との読み合わせからも見えてくるのである。

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL