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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年9月16日  年間第24主日 B年 (緑)
わたしは、打とうとする者には背中をまかせた (第1朗読主題句 イザヤ50・6より)

鞭を打たれるキリスト   
フレスコ画 
フィレンツェ ウフィツィ美術館 12世紀

 鞭打ちにも負けないキリストのまなざし……そんな特徴に惹かれて、きょうの表紙絵が掲げられている。
 中世末期やルネサンス以降は、より苦しみを感じているイエスの姿を写実的に描く作品が多くなるが、この絵は、聖書の写本画の筆致にも似ており、イエスや人々の描写は素朴なデフォルメを感じさせる。さきほど、イエスの眼光が鋭いと言ったが、鞭打つ人々や左側で見つめる役人らしき二人の男の目も、くっきりと力強く描かれている。どうやら、この絵の特色といえそうである。
 きょうの福音朗読箇所は、マルコ福音書8章27−35節。この福音書の中で前半と後半の転回点にあたる、ペトロの信仰告白とイエスの最初の受難予告、そして弟子たちに対する明確なメッセージ「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)が告げられるところである。
 イエスの受難予告は、直接のセリフ(つまり「 」表記)ではなく、間接話法的に示される。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(31節)……この苦しみの様子を預言の中で語る箇所として、第1朗読ではイザヤ書50章5-9a節が読まれる。いわゆる「主の僕の歌」の第3の歌である。受難の主日のミサで読まれる第1朗読(イザヤ50・4-7)とも5、6、7 節が重なっている。イエスの受難については、受難の主日や聖金曜日の福音朗読が直接の対象となるところだが、9月の福音朗読は、受難予告の箇所が想起されるという意味で、半年後の朗読と関連していることがわかる。弟子たちに対して、イエスに従う生き方がどのようなものかがはっきりと厳しく告げられていくのも、これからなのである。
 このような関連を意識しながら、今回の表紙では福音の受難予告と第1朗読の内容にちなみ、鞭打たれるイエスの姿にした。イザヤ50章6節「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」に相当しよう。「わたしは顔を硬い石のようにする」(7節)、「誰がわたしを罪に定めえよう」(9節a)も、この絵の中のイエスの姿に実によく合う。
 実際にイエスが侮辱を受ける場面は、各福音書ではいくつかの叙述がある。マルコでは、14章65節に最高法院での裁判のあと、唾を吐きかけられたり、目隠しをされこぶしで殴られたり、平手で打たれたりする。さらにマルコ15章17−19節では「紫の服」を着せられ、「茨の冠」をかぶせられ、「ユダヤ人の王、万歳」と揶揄され、葦の棒で頭をたたかれたり、唾を吐きかけられたりする。マタイでも26章67節でも唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれると言及され、さらに27章27−31節では「赤い外套」と「茨の冠」のこと、唾の吐きかけと葦の棒たたきが言及される。ルカでは、22章63−65節で、イエスを殴る、目隠しをする、そしてののしることが言及される程度で、描写は少なくなっており、紫の服または赤い外套や茨の冠のことは出てこない。ヨハネ福音書では18章22節に平手打ちへの言及があったのち、死刑判決を受けたイエスに対して、19章1節からの叙述の中で「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った」(19・1-3)とある。結局「鞭で打つ」はこのヨハネだけが言及している。絵ではしばしば、この描写が多いのに、福音書では、記述する箇所は案外少ないのである。
 この絵のイエスは、目力もさることながら、そのまっすぐ堂々とした立ち姿において、すでに「ユダヤ人の王」、それ以上に、「主」としての尊厳を感じさせてあまりある。彼を打とうとする兵士たちは、すでに引き立て役にすぎない。嘲りの表情であるはずの兵士たちの顔は驚嘆のニュアンスさえ感じさせる。
 このイエスの姿は「あなたは、メシアです」(マルコ8・29)というペトロの告白にふさわしい威容でもある。

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