2019年6月23日 キリストの聖体 C年 (白) |
残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった(ルカ9・17より) パンの増加の奇跡 オットー三世朗読福音書 挿絵 ミュンヘン バイエルン国立博物館 10世紀 パンの増加の奇跡を描く中世の聖書写本画の一つ。上段には、中央に立つキリストが両脇にいる弟子たちに、パンと魚あるいはパンだけを与えて配る指示をしている。下のより広い空間に群衆を描き出し、真ん中の空間に十二の容器を描いている。構図と個々の要素の扱い方にユニークな特色が見える。 イエスの不思議な行いを驚くように見上げている人々の表情が印象的である。よく細かく描き込んだものである。一番の下の群衆の中には、杖をもった人や幼子を抱き抱えた母親の姿も見える。群衆の数はぴったり50人である(幼子も含めて)。「男が五千人ほど」(ルカ9・14)という限定をあえて無視し、「すべての人が食べて満腹した」(ルカ9・17)ことと「五十人ぐらいずつ組にして」(14節)という表現をきっかけにして、このように描いたとしたら、それも一つの読み方の展開といえる。そして、十二部族や十二使徒との関連で考えられる十二のかごも、かごというより高価な供物を入れる黄金の器であり、中身も残ったパン屑というよりパンそのものである。 こう見ると、きょうの福音朗読箇所ルカ9章11b ~17節の叙述を土台に置いてみても、対応するところと対応しないところがある。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(16節)のところが、かろうじて、五つのパンと二匹の魚を両側の弟子に与えている光景で示されているといえる。ただ、弟子がうやうやしくおじぎをして、それらを拝受しているという光景は福音書からはイメージしにくい。 これを見上げている人々の驚嘆の表情を見ると、少ない食べ物がすべての人を満腹させることになる、不思議なイエスのみわざを先取りするかのように感じ入っている光景なのである。もうすでにイエスの与える糧、永遠の命の糧とされる聖体の秘跡を描き出している。パンと魚の奇跡はいわば導入のイメージにすぎない。この絵は、こうして、五つのパンと二匹の魚の出来事に基づきつつ、いつものミサにおけるキリストとの出会いのほうに、絵の“心”は向かっている。キリストの与えてくれる恵みの豊かさ、それを受け取り、人々に分けていく、かつての使徒、今の司祭たち、そして生活の中のさまざまな状況の中から食べ物を求めにきたかつての群衆と、今もいつもキリストにより頼む信者たち。そのかつてと今の間にミサがある。 「キリストの聖体」という祭日は、ラテン語規範版の呼称を直訳すると、「もっとも聖なる、キリストの御からだと御血」の祭日である。きょうの第1朗読と第2朗読は、この御からだと御血のもとになるパンとぶどう酒の意味を説き明かそうという箇所が配分されている。第1朗読は創世記14章18-20節からアブラム(後のアブラハム)、祭司にして王であったメルキゼデクが、パンとぶどう酒を贈り物として与えるときの祝福のことばである。旧約における祝福は同時に神賛美であることが、ここにおのずと示される。アブラムへは祝福を、いと高き神には賛美が、同じことばでささげられているからである。 第2朗読は一コリント書11章23-26節、いうまでもなく、イエスによる主の晩餐の制定の箇所。聖体の秘跡の制定、感謝の祭儀=ミサの制定でもあるイエスの行いとことばが告げられている。そこでイエスが行うパンとぶどう酒の杯を使う秘跡の祭儀の制定は、神への感謝の祈りをもってなされている。 福音書の告げる五千人を満たす出来事でも、パンと魚の上にする賛美の祈りが重要であった。三つの朗読を通じて、特別な意味をもつことになる食べ物・飲み物は、神への賛美ないし感謝の祈りをもって、特別なもの、それぞれイエスのからだ、イエスの血によって立てられる新しい契約のしるしとなる。ここのところがおそらく、きょうの朗読配分の核心的なところであり、それは、ミサの感謝の典礼の意味を物語るものでもある。「もっとも聖なる、キリストの御からだと御血」は、神への賛美と感謝の祈りの中で、そのようなものとして実現される。現在、奉献文というかたちになっている、この賛美と感謝の祈りが、はるか旧約時代の経験をも、神の計画の予型(前表)として位置づけ、使徒を通じて、今に至るまで伝えられている。典礼の中には、神の救いの計画の厚みと奥行きが凝縮されている。 |