2019年11月24日 王であるキリスト C年 (白) |
御子は、見えない神の姿であり……(コロサイ1・15より) キリスト イコン キプロス 聖ネオフュトス修道院 12世紀末 12世紀末のキリストのイコン。イコンのキリスト像の多くは「全能者キリスト」「慈しみ深い主キリスト」などが標題として掲げられるが、このキリスト像は「フィラントローポス」という文字が光輪の左右に分けて記されている。「フィラントローポス」とは「人類を愛する」という意味であり、「すべての人を愛しておられるキリスト」がこのイコンの表題である。聖書を開いて左手に持ち、右手は祝福のしぐさをとっている。キリストはやや面長で、その表情は、威厳に満ちている。厳粛といってもよい。 きょうは、年間最後の主日に祝われる王であるキリストの祭日、C年の第2朗読箇所はコロサイ書1章12-20節である。「御子は、見えない神の姿」(15節)であるというところに注目し、御子が父である神を目に見える形で示してくださった方であるということをこのイコンを通して味わってみたい。 このコロサイ書の箇所は、広大な宇宙論的な展望を述べる。御子がすべての被造物よりも先立って生まれた方であること(15節)や「万物は御子によって、御子のために」造られたこと(16節)、御子は万物より先に存在し、すべてのものを支えていること(17節)など。「王であるキリスト」というきょうの祭日は、ラテン語によれば「宇宙万物の王であるキリスト」というのが正式なタイトルである。それを踏まえるとき、ここのコロサイ書を朗読する意味が十分にわかってくる。それが、この祭日が年間最後の主日に置かれている理由でもある。各年共通用公式祈願の集会祈願がこの主題をよく示している。「全能永遠の神よ、あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、すべてが一つに集められるようお定めになりました。造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、栄光を終わりなくたたえることができますように」 もちろん、コロサイ書は、神が「万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(20節)とあがないのみわざにも言及するし、「御子はその体である教会の頭です」(18節)とも語っている。救いの歴史の始まりでもあり、中心でもあることを語り、それをもって完成まで支え導いているイエスは、父の計画そのものの体現者であり、まさしく「見えない神の姿」であるといえる。 このイコンの場合「人類を愛する方」としてその姿を示しているということは、宇宙万物の王であるキリストのもう一つの側面を考えさせてくれる。きょうの聖書朗読では特に言及されてはいないが、御子の派遣が神の人類への愛であることを語る箇所は、新約聖書には数多くある。一ヨハネ書の次の箇所は、その典型の一つとなる。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハネ4・9-10)。 このよう御父と御子キリストの関係を述べる箇所とともに、ミサの奉献文の結びの栄唱が思い出される。「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。アーメン」──イコンのキリスト像とも共鳴するのではないだろうか。 上述の使徒書の内容に対して、福音朗読箇所(ルカ23・35-43)が示すイエスの姿は具体的である。酸いぶどう酒を突きつけられながら侮辱されているイエス(36節)、「これはユダヤ人の王」と書かれた札を頭上に掲げられているイエス(38節)、そして、隣の十字架にかけられている犯罪人から「わたしを思い出してください」と願われているイエス(42節)、この犯罪人のことばに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と告げるイエス。このような受難のときの姿をも、キリスト像には付き物の光輪の十字架が、いつも思い起こさせてくれるはずである。 |