2019年12月15日 待降節第3主日 A年 (紫) |
「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか」(マタイ11・3より) 人類の救いをキリストに願う洗礼者ヨハネとマリア モザイク ヴェネツィア トルチェッロ大聖堂 12世紀 表紙絵は「デイシス」と呼ばれる東方キリスト教美術で発展した画題の作品。(向かって)右側に洗礼者ヨハネ、左にマリアが配置され、中央のキリストに全人類の罪のゆるしと救いを願っているところを描き出す絵である。デイシスとはそのような「請願・執り成しの祈り」を意味するギリシア語に由来する。このトルチェッロ大聖堂のモザイクは、最後の審判の図に統合されたデイシスを描く作品の典型としてしばしば言及されるものである。 キリストの描き方にまず注目しよう。ヨハネとマリア、その他の人々と同じ地上に立っているのではなく、天からの来臨を示すかのように中空におり、ここでは卵型の光背の中に光に満たされて浮かんでいる。次元の違いが感じられる。そのキリストは、手と足にはっきりと傷が描かれている。まさしく地上に生き、苦しみを受けて葬られた方が死者からの復活ののち、天に昇り、父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くためにここに来ているのである(「使徒信条」参照)。キリストの座の下に4つの顔(人間、獅子、牛、鷲)と4つの翼をもつ生き物が二者描かれている。これは、エゼキエル書1章4-14節に基づく(そこでは生き物の数は4。黙示録4章6-8節もここを踏まえる)。また下には二つの車輪が描かれているが、これもエゼキエル書の1章の続き15-21節に関連する(さらにエゼキエル10章も参照)。主の栄光の強調である。 デイシスの図がきょうの待降節第3主日(A年)に掲げられているのは、福音朗読箇所であるマタイ11章2-11節との関連である。そこでは、洗礼者ヨハネからの「来るべき方は、あなたでしょうか」(3節)という問いかけを(彼の弟子たちを通して)聞いたイエスが救いの到来の事実を告げる。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11・5)。イザヤ書61章1節を踏まえた表現である(ルカ7・18-35の並行箇所と同時にルカ4・18-19も参照)。その内容は、きょうの第1朗読イザヤ書35章1-6a、10節)、さらに答唱詩編(詩編146 の1-2節、6-10 節からの唱句)とも響き合っている。イエスによる救いの到来、その福音の喜びがまさしくこの待降節第3主日のテーマである。それゆえに「喜びの主日」と呼ばれ、入祭唱がその意味を力強く告げる「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5参照)。待ち望まれた方はすでに来ておられる方であるというメッセージがきょうの福音である。 このようなイエスの登場の先駆けとなった洗礼者ヨハネと、救い主イエスとの関係は、デイシスの図の中にヨハネとイエスとの関係性のうちにしっかりと描きとどめられているといえるだろう。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」(マタイ3・11。並行箇所も参照)と言っていた洗礼者ヨハネは、今、最後の審判に来られた主の前に、すべての人に対する罪のゆるしと救いを願う方として位置づけられている。裁きに来られる主も、ここでは、明るい光をもたらす方であり、救いの喜びの訪れを感じさせる。ヨハネとマリアの救いを取りなす姿は、そのまま救い主キリストを賛美し礼拝する姿にほかならない。 ちなみに、福音を告げ知らせるイエスの先駆となったのが洗礼者ヨハネだとすれば、そのイエスの生涯の始まりを生み出す方はマリアである。ヨセフも伴われるとはいえ、待降節第4主日から主の降誕、聖家族、主の公現までを貫いてクローズアップされるのはマリアである。イエスをめぐる、より密な囲みをマリアが形づくるとすれば、その外側で、待降節第2主日と第3主日、そして主の洗礼と年間第2主日には洗礼者ヨハネが登場する。神の子の到来をめぐるこれらの期間は、救い主キリストの来臨を待ち望み、来ておられる主を礼拝し、願いをささげる、デイシスの季節といえるかもしれない。 |