2019年12月25日 主の降誕(日中のミサ) (白) |
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1・14より) 主の降誕 二枚折書き板装飾 アトス ヒランダリ修道院 14世紀 アトス山のヒランダリ修道院で作られた「二枚折書き板」の装飾のひとコマ。この表紙でもたびたび紹介しているので見覚えのある方も多いだろう。もう一度その由来を解説しておこう。 アトス山とは、ギリシア中央部、エーゲ海に突き出た三並びの半島の最も東側にある、岩山からなる半島で、20の修道院やその他の小施設を含む一大修道院共同体となっている。自治権をもっているため、アトスの修道院共和国とも呼ばれる。14世紀に作られた後期ビザンティン工芸芸術の代表作といわれるこの「二つ折り書き板」装飾である。「二枚折書き板」とはギリシア語で「ディプティコン」。東方正教会の聖体礼儀(ミサにあたる)で奉献文(アナフォラ)の中の取り次ぎの祈りで記念される、生者・死者を含む共同体のメンバーの名を書き記した板のことである。 その表紙がキリスト生涯図の工芸的装飾の場となっている。片面は、マリアへのお告げから始まり、イエスの誕生、洗礼からすぐ、変容、ラザロの復活、エルサレム入城に移り、最後の晩餐、逮捕、裁判まで描く12図、もう片面は、受難、十字架磔刑、埋葬、復活しての現れ、聖霊降臨までを描く12図。福音書に基づきキリストの生涯を描く全24図は、福音書の朗読が細やかな配分となった現代の典礼にとって鑑賞と黙想の友と呼べるものとなっており、たびたび紹介されるものとなっている。 その降誕図がきょうの表紙作品である。少し右下方向に傾けて見るとよいだろう。小さな丸いスペースの中に、降誕図の定型要素がぎっしりと盛り込まれている。中央に大きく描かれるのはマリアで寝床にいるようにも椅子に座しているようにも見えるが、左手が幼子イエスを指し示し、そして顔は(向かって)左側にいるヨセフに向いている。あたかも幼子が預言どおりの救い主であることをヨセフに説いているような姿勢である。ヨセフは左手を上げて、この出来事は何の意味なのだろうかと、考え込んでいるように見えるからである。東方のイコンで、ヨセフが思い悩む姿で描かれることに対応している描き方である。 さて、幼子は、真っ白い布にくるまれながら横たわっている。この布にくるまれているということは、降誕図では、しばしば神の子が人間の状態、その宿命のもとに生まれてきたことを示すという意味がある。とはいえ、その布の白さは鮮やかで、すでに神の栄光の輝きをまとっていることを示しているようである。神の子がまさしく人となったこと、きょうの福音朗読箇所ヨハネ福音書1章1-18節(短い場合は1・1-5、9-14)の「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(14節)の表現だろう。 この白が、ろばにも、下のほうにいる羊たちにも配されているところには何か意味があるのだろうか。ろばは異邦人と理解され、羊たちは救われ、導かれるべき弱い人間とも考えられる。そこには、すべての人に救いが及び始めているという意味の色彩であるのかもしれない。両脇に羊飼いがいて、上には天使がいる。天使が右手を上げているのは、救い主の誕生を告げていることのしるしである。 背景はあまりはっきりとはしないが、降誕の出来事が岩屋であったと考える東方の伝統に属している。 その岩も、マリアの衣服の濃い青色を囲むように神の子の降誕の場となっている。この岩の色には闇のイメージがあるのだろう。そこに幼子をくるむ白い布がひときわ輝き、同じ色をすでに受けている羊たちがいる。小さな丸いスペースにこれらの要素がぎっしりと収まり、場を満たしているところに、祝祭の雰囲気が感じられる。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1・4-5)──ヨハネ福音書の厳かで静かな喜びを湛える本文を、絵とともに、味わおう。 |