2020年1月26日 年間第3主日 A年 (緑) |
わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(マタイ4・19より) 最初の弟子たちの召命(部分) フレスコ画 ギルランダイオ作 バチカン システィナ礼拝堂 一四八二年 ミケランジェロの「最後の審判」で有名なシスティナ礼拝堂には、その両側の壁の下の部分に、この絵の他に、ロッセルリ(4)、ペルジーノ(3) 、ボッティチェリ(3) 、シニョレルリ(1) らによる合計12のフレスコ画が飾られている。うち6つはイエスに関するもの(洗礼、誘惑、最初の弟子たちの召命=表紙絵、山上の説教、ペトロへの鍵の授与、最後の晩餐)、他の6つはモーセ伝である。この弟子たちの召命の絵はギルランダイオ(1449-94)の作である。 ギルランダイオは、本名はドメニコ・ ディ・ トンマーゾ・ ビゴルディ。金銀細工師の息子としてフィレンツェに生まれ、同地で没したフィレンツェ派の画家。ギルランダイオという通称は、彫金家であった父親が、当時若い女性の間に流行していた花の髪飾りの製作に長けていたことから「花飾り」(ギルランダイオ)に由来するという。フィレンツェで工房を構え、ミケランジェロがその最初の徒弟であったという関係である。代表作はフィレンツェのサンタ・ マリア・ ノヴェラ聖堂壁画『聖母の生涯』と『洗礼者ヨハネの生涯』で、聖書の物語が当時の市民生活と重ね合わされて生き生きと表現されているところに特徴があるという。この最初の弟子たちの召命の場面でもそのことが示されており、表紙に掲載したのは中央の部分だけだが、その両側にはもっと大勢の人が描かれている。 主題は、ちょうどきょうの福音朗読箇所、ガリラヤ湖のほとりでの最初の弟子たちの召命の場面である。長い場合にあたるマタイ4章12-23節の後半18節からの箇所との対応で考えてみたいが、実は、この絵には、召命が三重に描かれている。順番としては、左の遠景にイエスが「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」(18節)というところ、そして「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」(19節)ところにあたる。右側の湖上にも舟があり、そこに描かれているのは「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(21節)である。彼らが「舟の中で網の手入れをしているのを御覧になる」(同)イエスの姿は、この部分画面からは残念ながら省かれている。 絵の中心主題と呼ぶべき前景にあたる場面は福音書に特別な記述はないが、イエスが前にひざまずくペトロとアンデレの二人を使徒として公認しているところと言われる。イエスの右手は祝福と同時に福音宣教のための力を授けるしぐさともいえる。イエスの前に服する弟子たちの姿勢は、福音書との対応を考えるなら、ペトロとアンデレについては「二人はすぐに網を捨てて従った」(20節)、ヤコブとヨハネについては「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」(22節)という、この「すぐに……従った」行動とそこにある心の状態を表しているといいえるだろう。 広大や背景をもって深い奥行きを映し出す画面構成は、召命の場面の絵としては希有かもしれないし、写実的な人物描写は、地上的な光景の画像化と考えたいが、実際には、日本の絵巻物のように、数カ所に同時にイエスや弟子たちが描かれている。これは地上の常識とは異なり、一種の神秘表現であることがわかる。 マタイ福音書が強調する「インマヌエル」(神は我々と共におられる)であるイエス(マタイ1・23参照)、弟子たちに向かって「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28・20)と言うイエスのあり方を示そうという工夫なのではないだろうか。湖、岸辺、中景の城、遠景の山、これらはヨーロッパの景色であり、周囲の人物群も当時のフィレンツェの人をモデルにしている。自分たちの具体的な世界に来てくれた救い主、神の子イエス・キリストへの思いを具現しようとするものだったのだろう。 遠景の白い空は「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4・16;第1朗読のイザヤ9・1参照)という預言の成就を味わうことができる。(主の降誕・夜半の第1朗読でも読まれる預言である。ペトロとアンデレにまなざしを注ぐ救い主の表情は厳かでもあり穏やかでもある。 |