2020年2月16日 年間第6主日 A年 (緑) |
わたしが来たのは律法や預言者を……完成するためである(マタイ5・17より) モーセに律法を授けるキリスト モザイク ローマ サンタ・コスタンツァ聖堂 4世紀半ば サンタ・コスタンツァ聖堂はコンスタンティヌス大帝の娘コスタンティーナ(345年没) の墓廟として建造されたものである。キリスト教公認後の教会建築の形成史において、廟堂から転化させて聖堂にしていった例の代表とされる。その天井のモザイクであるこの図像は、キリストがモーセに律法を授けるというところを主題としている。初期のキリスト像として頻繁に登場する「掟を授与するキリスト」と「玉座のキリスト」という二つの主題が融合されたものといえる。キリストがモーセに掟を授与するという構図がユニークであろう。常識的な歴史像からは出てこないものだからである。しかし、ここには、救いの歴史特有の意味が込められている。それが、きょうの福音朗読箇所(マタイ5・17-37 長い場合)におけるイエスの教えと重なっているのである。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)。旧約の掟と新約の掟、律法と福音の関係に対する理解が図像化されているといってもよい。 福音書においてイエスはしばしばファリサイ派や律法学者たちと論争しているので、我々は、律法に対して否定的な印象を抱きがちである。しかし、イエスは、愛の掟もすでに律法の中にある最重要なものとして提示する(マタイ22・34-40 および並行箇所) 。論争においても、律法学者たちの表面的な解釈を突き崩し、律法の根底にある、より深い、真実の神の教えを明らかにしていくのである (マタイ19・1-12の離縁・結婚についての教えなど)。その精神を自ら行動で表し、受難の道へと歩んでいったのがイエスの生涯である。そのことの意味を、復活したイエスとの出会いを通して、使徒たちは深く悟り、旧約の完成者、律法の完成者としてキリストを考えるようになる。そこから、旧約聖書がキリスト者にとっての聖書となり、旧約・新約合わせて一つの聖書として新約の神の民の信仰を導くものとなる。 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」(ローマ10・4)というパウロのことばは、端的にその関係を示している。玉座のキリストがモーセに律法を授け、モーセはキリストに仕える者として側にいる。このような両者の関係のイメージは、聖書全体を読んでいく上でのよいヒントになるだろう。律法が話題になるときには、いつも思い起こしておきたい図像である。 さて、きょうの第1朗読箇所であるシラ書15章15-20節では、神が与えた律法(掟)に対する人間の意志や責任の重要性が語られている。「人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる」(シラ15・17)。しかし、それらすべてをも、主は見通している方である。神の知恵の豊かさ、計りがたさも、そこで思い返される。神が人間に与えた重要な恵みとして人間の自由意志が語られているとともに、そのことによって神が人に望んでいることの大きさも感じさせてくれる。すでに福音である。 第2朗読は、年間主日に入り、準継続朗読として1コリント書が読まれている。きょうは、1コリント書2書6-10節。第1朗読に出てくる「知恵」のテーマが明確に出てくる箇所である。「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(1コリント2・7)。この神秘は、別の箇所では「秘められた計画」とも訳されているものでパウロの神学のキーワードの一つである。「キリストの神秘」という言い方でよく使われ、イエス・キリストによって実現された神の救いの計画を意味し、その計画を実現したキリストの生涯、とくにその死と復活を指して過越の神秘、また神の子が人となったことを指して受肉の神秘となる。 旧約の律法も、そのような神の広大な計画の一環として与えられたものであり、それは、いつもキリストの神秘を根源としている。そのことをよく語り掛けている図像である。 |