2020年3月01日 四旬節第1主日 A年 (紫) |
罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた(第二朗読主題句 ローマ5・20より) 楽園追放 扉の青銅浮き彫り装飾 イタリア ヴェローナ サン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂 12世紀前半 聖ゼーノ(またはゼノとも表記)は、生年は不詳だが北アフリカ出身で、362年にヴェローナの司教となり、371年または372年死去した人物。聖書講解的な説教が93編残っている。現聖堂は9 世紀に建てられたが10世紀初めにマジャール人の侵攻を受けて破壊され、神聖ローマ帝国皇帝オットー1 世の保護のもと962 年ロマネスク様式の聖堂として再建された。12世紀前半に浮き彫り彫刻をあしらった青銅扉が造られ、そこに表紙作品のような聖書の諸場面が描かれている。 さて、「楽園追放」と呼ばれるこの場面、聖書本文の創世記2章4節bから始まり、3章23、24節で語られるエデンの園からの追放までをもとにしている。2章はアダムの創造、土(アダマ)の塵で人を形作り、命の息を吹き入れたこと(7節)、そして女の創造(22節)へと展開する。「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(25節)ことが次の伏線となる。3 章は冒頭から蛇の誘惑が語られ、主なる神から「決して食べてはならない」(2・17)と言われていた善悪を知る木から実を食べる(3・6)、そのとたん「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(3・7)。きょうの第1朗読箇所で抜粋されている創世記2章7 -9節、3 章1 -7節は、まさにこの「善悪を知る木」をめぐる主なる神と二人との関係に焦点が当てられている。 表紙作品で、なによりも印象深いのは主なる神が大きな二つの翼のある天使として造形されていることではないだろうか。構図全体の中央を大きく占めており、その翼の広がりは、神の力の強さ、大きさを感じさせる。その権威の前に、アダムとエバはあとずさりをしている様子である。朗読箇所に続く、3章8節から22節までの主なる神と二人との出会いと対話の叙述は、神が園の中を歩くという具象的描写自体からして珍しい。神話的表現とさえいえる。しかし、そこでの神のことばの意味は重く、エバには出産の苦しみ、アダムにはパンを得るための労苦が言い渡される。それは、誘惑に負けたことへの罰のように述べられるが、他方で、人類に背負わされた宿命と使命の啓示ともいえる。さまざまな含蓄に富んでいるこの内容を考えるために図像は一つの支えになるだろう。画面(向かって)左側の大きな木が主題となっている「善悪を知る木」であろう。 A 年の四旬節の聖書朗読配分は、キリスト教入門にうってつけの内容となっている。古代教会で、洗礼志願者のための教育を意図して選ばれた朗読の伝統を踏まえているからである。この第1主日の第2朗読(ローマ5・12-19 長い場合)は、第1朗読の内容をしっかりと受けて、冒頭「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と告げる。アダムは、逆の意味で、キリストの到来を予告する存在である。「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」(14節)と語られるとおりてある。 そして、福音朗読箇所は、マタイ4章1-11節で、イエスが洗礼を受けたあと、荒れ野で悪魔の誘惑を受ける場面である。最初の人間が負けた誘惑に、イエスは負けない。この負けない態度は、生涯の最後、十字架での死を通しても徹底され、復活という勝利に至る。こうしてアダム以来の誘惑に負けた歴史が最終決定的に克服されることになる。その過越の神秘に対して、荒れ野での誘惑とそれに打ち勝った出来事は、イエスの生涯における一つの前もってのしるし(=予型)である。 三つの朗読の内容の究極の主題は、イエスの死と復活の神秘、主の過越の神秘にある。四旬節を通して、この神秘をめぐって、すべての主日の朗読が展開していく。その趣を作品鑑賞とともに進めていきたい。 |