2020年3月08日 四旬節第2主日 A年 (紫) |
これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け (マタイ17・5より) 変容 フレスコ画 フラ・アンジェリコ作 フィレンツェ サン・マルコ博物館 15世紀半ば フラ・アンジェリコ作の主の変容の図。中世の写本画や東方のイコンに伝統的であった主の変容の図と共通のところと、大きく違うところがある。光を背に白い衣をきたイエスの変容の姿を中心に描くこと、また下の部分で畏怖を覚えている三人の弟子たちを主に描いていることは不変の主題である。(向かって)左から、ペトロ、ゼベタイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネである。 岩山の描き方が比較的小さく、イエスの立つ部分が平らな舞台のように描かれているところは、この作品の独特なところといえる。その分、イエスの姿が強調されている。その両腕を左右に広げている姿勢も比較的珍しい。顔の表情も威厳に満ちている。 変容の図の伝統と大きく異なるのは、モーセとエリヤが現れたことを表現するのに、顔から上の部分を示すだけになっていることである。(向かって)左がモーセ、反対の右側がエリヤである。伝統的には全身像が多かったところ、このような現れ方にしているところには、もう一つの意図があって、さらにこの変容の出来事を拝む存在として、(向かって)左がマリア。そして右側は、ドミニコなのである。ドミニコはフラ・アンジェリコが所属するドミニコ会の創立者である。これはこの作品の大きな特色である。聖書の叙述に沿うだけでなく、制作者の側の関係者を画面の中に登場させるという、想像力のかたちは興味深いものがあろう。 ただここでは、この四旬節第2主日の聖書朗読を黙想するために、相対的に小さく描かれることになったモーセとエリヤについて考えて参照箇所をじっくり読んでみたい。モーセに関しては出エジプト記24章15-18節である。「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた」。 次に、エリヤについて、列王記上19章の叙述である。荒れ野に入ったエリヤは、主の御使いが「起きて食べよ」という言葉とともに供されているパン菓子と水を飲む。二度目もそうなる。「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(王上19・8-10)。これにエリヤが答えると、「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた」(11節)。 一般にシナイ山はホレブ山と同じと考えられている。イエスの変容については「高い山」と言われているだけで、どこの山ともいわれていないが、モーセにおいてもエリヤにおいても「山」は、神との出会いの場であった。それが重要である。やはり「高い山」で、イエスにおける神の現れが示され、弟子たちがそれを体験する。姿で表された内容は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声によっても告げられる。変容という視角に関する現象とともに、「これに聞け」という声が重みをもっており、主の変容の出来事は、弟子たちにとっては、受難と復活の道に従うことへの召命の出来事にほかならなかった。その前史を形成するのが、モーセとエリヤである。「山」という空間、「四十日四十夜」という時間が神と出会うために人間に課されたものの象徴である。そこに、我々にとっての「四十日四十夜」すなわち四旬節の前例がある。このようにして、四旬節第2主日の福音朗読は、我々にもう一つ、踏み込んだ、すなわちキリストの神秘に近づく形で「四旬節」の意味を告げている。そのことを心に留め、絵の鑑賞とともにキリストの姿に近づき、その威厳のうちに御父からの呼びかけを反芻してみよう。 ※お詫びと訂正 表紙絵の表記に誤りがございました。訂正して、お詫び申し上げます。 (誤)ベネェツィア サン・マルコ博物館 15世紀半ば (正)フィレンツェ サン・マルコ博物館 15世紀半ば |