2020年3月15日 四旬節第3主日 A年 (紫) |
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。(ヨハネ4・14より) サマリアの女との対話 エグベルト朗読福音書 ドイツ トリール市立図書館 980年頃 きょうの福音朗読箇所は、長い場合ヨハネ福音書4章5節から42節までだが、短い場合でも4章5-15節、19節b-26節、39節a、40-42節となっている。それでも長い。このイエスとサマリアの女の出会いと対話の叙述はさまざまな歴史的背景についての知識が必要とされる。同じく、アブラハム、イサク、ヤコブを祖としながらも、王国時代の歴史の中で、ユダヤ人とサマリア人が反目し合うようになっていたこと(サマリア人はゲリジム山を聖所として礼拝しており、ユダヤ人はエルサレムを礼拝すべきであるとしていた)などが前提となっている。そのうえ、ここに登場する女は、罪深い女であったことも話の前提にある。普通、水汲みの時間ではない、正午ごろ(ヨハネ4・6)に水を汲みに来るのは人目を避ける必要があった人だということであり、このことは、17節から18節の対話でわかる。この女は5人の夫がいたが、今、連れ添っているのは夫ではないのである。そんな女に、イエスは「水を飲ませてください」(7節)と声をかける。この言葉がユダヤとサマリアの対立を乗り越えていく始まりとなる。 エグベルト朗読福音書のこの挿絵の中で、女は、イエスの願いやその問いかけに困惑しているような表情を示している。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)。絵の中のイエスとサマリアの女がしめしている、右手はよく動いているように見える。二人の間の会話を表現している。間にある井戸は、本文に出てくる「ヤコブの井戸」である。ヤコブの所有であった井戸との伝承を持つこの井戸のことが、ヨハネ4章の話の一つの土台となっている。それは、両民族が共通の祖先が源流であるとする、本文中の暗示に対応している。そして、この女との対話の中で、イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と告げる。「世の救い主」(42節)としての自己宣言である(25-6節参照)。 興味深いことに、この挿絵は、イエスを小高い山の上に座す姿で描いている。本文では、ヤコブの井戸のそばに座っていた(6節)とあるだけである。これは、やはり文脈が伝える意味を具象化しているものと思われる。イエスは「婦人よ、わたしを信じなさい」(21節)と告げ、「この山(ゲリジム山)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言う。重ねて「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)。ここでは、サマリアとユダヤの対立を乗り越える新しい礼拝の時の到来が語られている。それはイエスにおいて今始まっていることである。新しい礼拝、新約の礼拝の時の到来である。対立していた二つの山、サマリア人にとっての聖所ゲリジム山もユダヤ人にとっての聖地(シオンの丘とも、山とも呼ばれる)エルサルムをも超える、新しい礼拝の場を山の上に座すイエスとして表現しているのだろう。ヨハネ福音書はイエスの体を「神殿」と称して、そこが新しい礼拝の場となっていくことを示していた(ヨハネ2・21参照)。絵の中の、小さな山に座すイエスの姿は、新しい神殿といってもよい。イエスは、ヤコブの井戸に代わり、新しく、永遠の命の源泉に自らなる。 そこから永遠の命に至る水がわき出てくる。上述のイエスの文言「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」という言葉に似た言い方がヨハネ6章にもある。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6・54)。 イエスは、人の永遠の命への渇きや飢えを知り、自ら尽きることのない水とパンになっていく。ヨハネ4章は水が中心的シンボルとなっているが、短い朗読では略される。帰ってきた弟子たちとの間での対話では、食べ物がテーマとなっている。絵では、弟子たちがイエスに向かって目を開き、その行為を見ているが、その左手のところに、丸いパンが見える。水のわき出る井戸とパン、イエスの両側に描かれているこの二つのシンボルは、我々にとっては、洗礼と聖体の秘跡の暗示であるように見えてくるのではないだろうか。 |