2020年4月26日 復活節第3主日 A年(白) |
パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった(福音朗読主題句 ルカ24・30-31より) エマオのキリスト 油彩画 レンブラント作 ルーヴル美術館 1648年 17世紀のオランダ絵画を代表する有名なレンブラントが描く「エマオのキリスト」である。天井が高く、暗い部屋にある食卓で、これから食事をしようとしている中央のイエスと二人の弟子、そして仕える男路たち。どこかに照明があるわけではなく、食卓の白い布が光り、イエスの顔が輝いている。周りの三人の男は、その光にそれぞれの姿勢で照らされている。光と影の芸術家であることが、この出来事に関して適用されている。静かな声で語り合っている声が聞こえてきそうである。 さて、きょうの福音朗読箇所ルカ24章13-35節は、エマオへ向かう弟子たちと復活したイエスの出会いの叙述であり、きわめて印象深い。エマオという村に向かって歩む二人の弟子の道中に、復活したイエスが現れたが、二人はイエスとは気づかなかった。ところが、エマオに着いて宿泊する家で食事となったとき、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24・30-31)のである。こうした劇的転換が話のクライマックスをなし、感動のもととなっている。 レンブラントのこの絵は、イエスがパンを裂いて渡すなどの行為をする直前の瞬間に思われる。むしろ、なおも先に行こうとするイエスに対して、弟子たちが「一緒にお泊まりください」(29節)と引きとめてから食事が始まるところまでの間の情景のようである。イエスの時代の風俗というよりも、ここは、17世紀フランスの一家屋のように感じられる。しかし、この暗い空間の中で、イエスとともに光が照り始めている。そこには、最初だれだかわからなかった弟子たちが、食卓で行為をみて、イエスだとわかったというプロセフへの暗示があるように思える。人間の目で見えなかったイエスの姿が、彼らは見えるようになった。つまり、闇に覆われていた心に、光が注がれたのである。イエスを知ることは、きっと密やかなこと、まさしく、神秘に出会うことなのであろう。そのようなキリストの神秘に対する表現として、この広い暗い空間の中の光が描かれていると思われる。 表紙絵で、これほど暗い部分の面積が大きい絵を掲載することも珍しいだろう。しかし、それだけイエスの復活は、秘められたことの体験であるはずである。主イエスと食卓の輝きの尊さがより鮮やかに感じられるこの絵とともに、我々は、やはりそれがミサの意味に関係していることを感じないわけにはいかない。 主キリストは、今も、ミサの中に現存して、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という行為を続けている。復活して今や天の父の右の座におられる御子キリストは、ことばとしるしをとおしてミサの中に現存し、我々と交わりの時を与えてくださる。 その弟子たちは、この宿舎に来る道すがら、イエス(だとあとでわかる方)が聖書を説明してくれたこと(ルカ24・32参照)を思い起こしている。このような叙述は、このエマオへの旅の途上での、イエス自身による聖書の説き明かしと一緒にしてくれた食事を、まさしくミサがことばの典礼、感謝の典礼という形で受け継いでいることを考えさえてくれる。 復活したイエスと出会い、この復活を告げ知らせるようになる弟子たちの旅をいわば我々も続けている。あのとき、聖書の説き明かしを受けた弟子たちの心は、それとは知らずに「燃えていた」(ルカ24・32参照)。この絵の中のイエスと弟子たちには、その理由がわからずとも心が燃やされた中での語らいがあるようである。我々のミサは多くの場合、公の集会の中で行われる晴れがましい典礼祭儀ではある。しかし、そこで聞く神のことばとの対話、主の食卓で聖体におられる主キリストとの交わりも、本来は、このような神秘の空間での静かな出会いを核心において、いつも含んでいるのではないだろうか。 |