2020年5月10日 復活節第5主日 A年(白) |
わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14・6より) 全能者キリスト モザイク ギリシア オシオス・ルカス修道院聖堂 11世紀 復活節第5主日と第6主日の朗読箇所はABC年各年全体にわたり、ヨハネ13章、14章、15章から取られている。最後の晩餐の席での話から始まる、イエスの弟子たちに対するいわば告別説教と呼ばれる一連の説教の箇所である。復活節にあって、新入信者を迎えた信者共同体があらためてイエスの教えを受けとめるという意味の配分である。きょうの箇所(A年)はヨハネ14章1-12節。イエスはまず昇天と再臨の約束(1-3節)を告げ、続く、弟子たちとの対話の中で「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)というはっきりとした自己啓示をする。この文言は、キリストの神秘を端的に説き明かす命題として心に刻まれ、格言のように親しまれている。 表紙作品は、聖堂の円蓋に描かれた全能者キリストの像である。すでに長い髪と髭という一般化されたキリスト像がより明確になっているのがわかる。左手に書を抱えるのも定番の要素だが、興味深いのは、右手のしぐさである。一般には外(真正面)に向かって二本の指(人指し指と中指)を前に差し出し、自らの神的力を及ぼすしぐさをしており、それは同時に祝福のしぐさでもある。ところが、このモザイクでは、その右手の指は、自分自身を指している。「わたしは……である」と説き明かしている姿勢、すなわち自己啓示の姿勢であると考えられる。開かれた書に記されている文言がそれにあたると思われるが、残念ながら文字が判別できない。かすかに、「エゴー」(わたしは)とか「エイミー」(である)と記されているようにも思われる。きょうの福音の「わたしは道であり、真理であり、命である」である可能性もある。いずれにしても、これをきょうの表紙作品としたのは、自己を啓示するキリストの姿を立体的に感じたいためである。 ここで興味深く思われるのは、先週の福音では「わたしは羊の門である」(ヨハネ10・7)といわれ、きょうの福音では「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)が中心的なメッセージとなるように、福音書の中にはしばしば、イエスの「わたしは……である」という文言が決定的な力をもって登場することである。ヨハネ福音書はとくにその典型である。羊の門や羊飼いに関することばはもちろん、そのほかに、「わたしは命のパンである」(ヨハネ6・48)、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(6・51)、「わたしは世の光である」(8・12)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15・5)など、がある。これは、キリストがキリストに従う人間(信仰者)にとって、どんなかたちでかかわる方であるかを説き明かす文言である。これに準ずるのは、「わたしの○○は……である」形式の文言である。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6・55)。 モザイクの全能者キリストのメッセージとしてよりふさわしいのは黙示録の中の主のことばであろう。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(黙示録22・13)。このようにして自らについて明かす主は、御子キリストであるとともに、御父をも示している。このことばは、前段の約束の根拠として告げられている。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(22・12)。 円蓋に描かれる全能者キリストは、神の右の座にいる主キリストである。それは、我々がともにささげるミサにおけるキリスト像と言ってもよい。そのキリストに対して、我々は「信じます」との宣言をもって応え、そのキリストによって、祈りを御父にささげ続けるのである。 |