2020年5月17日 復活節第6主日 A年(白) |
わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14・6より) 弟子たちに語りかけるイエス ドゥッチオ作 テンペラ画(マエスタ背面図) イタリア シエナ大聖堂 14世紀初め シエナ大聖堂のために描かれた「マエスタ」の背面の図の一つ。この背面には、十字架磔刑図を中心に、イエスの生涯の最後の場面や受難、そして復活までの諸々の場面が組み込まれている。「弟子たちに語りかけるイエス」を描く表紙作品は、ヨハネ13章31節「さて、ユダが出て行くと」から14章終わりの「さあ、立て。ここから出かけよう」までの弟子たちへの説教の場面に該当する。そこにきょうの福音朗読箇所であるヨハネ14章15-21節も含まれている。この場面の左上には「洗足」(ヨハネ13・1-11)、その下には「最後の晩餐」(ヨハネ13・12-28)の図。これらは全体としてヨハネ13章、14章による経過である。 さて、この弟子たちに語りかけるイエスの場面では、イエスが一つの玉座のような椅子に腰掛けている。その教えのもつ権威を表現しているのだろう。頭を少し前に出しているところに、まさに今語っている様子が感じられる。それ以上に(13章30節でユダが出ていったあとの)11人の弟子たちのイエスを見つめる視線の力強さとその個性の描き分けが素晴らしい。個々の表情や姿勢の微妙な違いの中に、13章31節から14章終わりまでの箇所に出てくる弟子たちの問いかけの多様性が反映しているように感じられる。シモン・ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」(13・36) と言い、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14・5)と言う。フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(14・8)、イスカリオテでないほうのユダは「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」 (14・22) と言う。これほど多くの弟子たちが問いを集中的に浴びせている場面も珍しい。「分かっていないのか」(14・9)とイエスにたしなめられつつも、そこには主を求める弟子たちの熱意が感じられる。この絵には、そのような弟子たちの気持ちを想像させる臨場感がある。 その弟子たちに、イエスは聖霊の派遣を約束する。ただし、聖霊という語は直接出て来ておらず、「弁護者」「真理の霊」という言い方で語られる。弁護者とは(『聖書と典礼』の脚注にもあるように)、ギリシア語でパラクレートス、すなわち文字通りには「そばに呼ばれた者」、ここでは「いつも近くにいて助けてくださる方」という意味である。イエスは、すぐに自らが言いたい意味を明確に語る。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」(14・17)といわれる方が聖霊である。 もう一つの「真理の霊」といわれる意味も考えなくてはならない。(同じく脚注にあるように)「真理」には、「確かなもの、信頼に値するもの」という意味と「隠されているものをあらわにすること」という意味がある。前者は、ヘブライ語のエメト(真実・信実)に通じる。この場合は、確かな霊という意味合いになり、偽りの霊や汚れた霊とは異なり、人を正しく、確かに父である神や御子キリストと結びつけてくれる霊であるということになる。もう一つの意味は、真理を表すギリシア語の原語「アレーテイア」から示唆される意味合いである。隠されているもの、覆われているものがなくなり、本当のことが明らかになるというような意味である。それはこの文脈でいうと、イエスが「戻って来る」(14・18)とき、「かの日」(20節)のことであろう。そのとき、「わたし(イエス)が父の内におり、あなたがた(弟子たち)がわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」という真実が「あなたがた(弟子たち)に分かる」(20節)のである。「わたしを見る」(19節)と、いわれるときのことでもある。 「真理の霊」というとやや抽象的な訳語だが、真理は漠然としているものではなく、神と人類の歴史において目指されている完成の時を意味すると考えると、その意味するところが身近になり、心強く思えてこよう。今もいつも注がれ続けている聖霊とは、そのように大きな、人類に約束された未来、いや「将来」へと連れていってくれる方である。 |