2020年5月24日 主の昇天 A年(白) |
天に上げられたイエスは、……同じ有様で、またおいでになる (使徒言行録1・11より) 主の昇天 聖母に関する説教集挿絵 パリ フランス国立図書館 12世紀 主の昇天の図としては、珍しいものといえるかもしれない。イエスが天に昇っていったという出来事であるのに、目立つのは場面全体を囲む建物である。ビザンティン式の大聖堂を彷彿とさせるいくつものドーム、その下の建物の上部の壁の青さとその装飾が目に飛び込んでくる。 昇天するイエスの姿はすでに玉座にいる姿で描かれているが、比較的小さい。建物の描写、そして地に立つマリアや使徒たち、そして、両脇にいる(推定されるところ)モーセ(向かって左)とダビデ(右)に比べても小さい。建物の壁に比べると、奥にいるような、そんな小ささである。もしそうなら、この昇天図は、遠い奥行きの中に入っていくという方向性も込められているように思えてくる。 周知のように、主の昇天の図は、古来、さまざまなタイプがあった。マリアや弟子たちが画面の下に集まっているという構図はどれも大体似ているが、(1) イエス自身が自ら天に向かって山を昇っていくように描くもの、(2) これと似た構図だが、神の右の手が上から出ていてイエスを引き上げるというように描くもの、 (3)栄光に包まれたイエスがマリアと使徒たちの上に描かれ、天に昇っていくところ、(4) これと似ているが、イエスの全身が栄光の光背に包まれて天使たちによって天に上げられていくように描くもの、さらに (5)上を見上げる使徒たちの上にイエスの足だけを描くものなどである。この挿絵の場合は(4)のタイプである。玉座を囲むアーモンド型の光背の上と下に二位ずつ天使がおり、弟子たちの側に二位の天使が描かれている。合計六位の天使の翼が羽ばたいているようで、この出来事のダイナミックさを感じさせる(注・位は天使の数え方)。 マリアが弟子たちの中央か中央に近いところに描かれる昇天図の伝統の一つの根拠は、昇天のあとエルサレムに戻ってきた使徒たちの集いの中に「イエスの母マリア」がいたことが記されていることである(使徒言行録1・14参照)。弟子たちの側にいる二位の天使たちのしぐさも力強い。「なぜ天を見上げて立っているのか」、「イエスは……またおいでになる」という(使徒言行録1・11参照)告知を生き生きと味わえよう。少し小さくなって判別しにくいが、マリアのすぐ後ろに立っている白髪と白い髭の男性はペトロである。そして、その向かい側にいる、禿げ上がった頭の男性はパウロである。パウロが昇天の場面にはいたはずはないのだが、昇天図の伝統としてパウロが描かれるという流れも立派にある。使徒の頭ペトロと異邦人への宣教者パウロの両人がここにいるということで、教会の歴史にとっての主の昇天の“意味”がより教理的に描かれているとも言える。すなわち、キリストと教会の歴史のその後の展開を含めて、図像の中に凝縮させているのである。この絵の場合、さらに両脇にモーセとダビデを描くことで旧約の神の民の歴史をも包括している。主の昇天という出来事は、たんに不思議な出来事(奇跡)として印象に残すだけでは足りない。聖書が物語る壮大な神と人類、神と神の民との関係の中でしっかりと位置づけてこそ意味がある。 そして、この図のもっともユニークな点、全体が建物として描かれている意味をも考えなくてはならない。聖書は無限の神の次元を「天」という語で表しているが、この絵の場合、「建物」で表現している。全体の基調をなす青と、下の人々の空間を満たしている金色がすでに神の栄光と聖霊の充満を先取りして示している。建物として表現されているものは、黙示録的にいえば「新しい都、天のエルサレム」であり、共観福音書的にいえば「神の国」に他ならない。A年の主の昇天の福音朗読箇所は、マタイ福音書の結び28章16-20節であり、その最後のことばは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)となっている。建物として天を描くこの図のメッセージもやはり、このキリストが共にいることを核心としているだろう。今すでに共におられ、最後のときに、そのことが完全になる……この約束の上で、今の教会がある。キリストに導かれ、聖霊に助けられて、新しい神の民のミサはささげられている。 |