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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年6月21日  年間第12主日  A年(緑)  
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい(マタイ10・27より)

キリスト  
モザイク 
ラヴェンナ サン・ヴィターレ教会 6世紀


 天上から眼差しを注がれる主キリスト──そのような趣が感じられるモザイクである。ラヴェンナのモザイクの鮮やかな光彩はもうたびたび紹介しているものである。それは、天に昇り、父である神の右の座についている姿、その意味では、父である神をも反映するキリスト像と言ってよいだろう。
 権威者のまとう高貴な衣服、手に携える巻物、光輪の十字架は、主であるキリスト、神のみことばであるキリスト、十字架から復活の栄光に移り、天に昇ったキリストのあり方をわかりやすく表している。円形に縁取りされているところにも意味を感じる。円形の枠はいくつかの色の層になっている。これは、神の栄光の神秘を示す雲の描き方であったことによるものである。「円」の形そのものは完全性の象徴であろう。すなわち、地上世界に対しては異次元の天上世界、神の場がこの円形の縁取りを通して表現されているのである。きょうの聖書朗読本文への黙想を、この天上から姿を現すキリストの図とともに進めてみたい。
 福音朗読箇所マタイ10章26-33節は、10章1-4 節の12人の弟子を選ぶところから始まる宣教のための一連の教えの一部になる。その前の10章16-25節では迫害を予告し、その中で迫害への対処の仕方が教えられていた。きょうの朗読箇所冒頭の「人々を恐れてはならない」(26節)はこの迫害予告の話にすぐ続く呼びかけである。
 その次の「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)は、宣教の意味を語っているように思われる。「覆われているもの」「隠されているもの」という表現は、マタイ13章で語られる「種を蒔く人」のたとえの説明で言われている「天の国の秘密」(13・11)を思い起こさせる。さらには、パウロのローマ書のことばも関係する。「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」(ローマ16・25)。「覆われているもの/隠されているもの」は神の救いの計画、その実現である神の国、そしてイエスが救い主であることを暗示する表現だろう。
 福音書の文脈ではこうした表現は、天の国(神の国)を指している。しかも、それは今や現され、知られるのであって、この受動態は、そのこと自体が神の意志による神のわざであるということが含蓄されている。宣教とは弟子たちの人間的動機による行為ではなく、本来神の行為である。したがって、人間的な恐れで左右されるものではない厳然たるものである。それゆえ「人々を恐れてはならない」と呼びかけられている。このメッセージに直接つながるのは、「恐れるな」が繰り返される28-31節のことばである。宣教は神の行為であるから、父である神が宣教者を絶えず守ってくれるということである。人々を恐れるな、とは、神のみを信頼せよということにほかならない。それが平安無事の中の守りではなく、厳しい迫害の中での守りであることを告げるものであるために、ここのイエスのことばには緊張感、切迫感がある。そして、この点で、きょうの第1朗読のエレミヤ書の箇所とも響き合う。「主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます」(20・11)というエレミヤのことばは、主に対する信頼の告白として、イエスの教えの意味合いを力強く告げている。
 ところで、福音朗読箇所の中の「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい」(マタイ10・27)は、イエスの宣教を継承する使徒たちの宣教のことを指し示していると言われる。イエスの生前のことは、やはりなお隠されていることだった。それはイエスの十字架と復活によって明らかになり、そこから使徒たちの宣教が始まる。本格的な指示としては、マタイ最終章28章18-20節にある復活したイエスの宣教派遣命令のことばである。マタイ10章のメッセージはここから本格的に始まる。28章の結びのことば「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」は、まさしく上述のエレミヤのことばとも呼応する。
 モザイクが映し出す天上のキリストとともに、マタイ福音書、エレミヤ書、ローマ書(第2朗読箇所も含めて)を関連づけながら、宣教とは何かについて思いが広げられていく。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 一三世紀のフランシスコと二一世紀のフランシスコ
 ともかく、フランシスコは「行いによって説教すべき」と明確に述べている。行動することによって、実際に模範を示すことが大事なことだ。これは、例えば「親の背中を見て育つ」という態度と似ているかもしれない。そうであるとすれば、教皇フランシスコの次の言葉は大きな意味を持つだろう。

 わたしたちは、後続する世代の人々に、今成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか(回勅『ラウダ―ト・シ』160)。

伊能哲大 著『現代に挑戦するフランシスコ』「1 行動、そして変革」本文より


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