2020年6月28日 年間第13主日 A年(緑) |
自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない(マタイ10・38より) 十字架のキリスト ステンドグラス フランス シャルトル大聖堂 13世紀初め フランス、シャルトル大聖堂の通称バラ窓の一つにあるキリストの磔刑図。もとより、きょうの福音朗読箇所(10・37-42)の「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)に基づいて選ばれている。中央のキリストの隣には、酸いぶどう酒を浸した海綿を葦の棒に付けて持っている人(右)とイエスの脇腹に槍を突き刺した人(左)がいる。ちなみに、槍を突き刺した人(ロンギヌス)はイエスの血を浴びて目が開かれ、弟子になったという伝説があり、この男の目が見開かれているのはそのためかもしれない。表紙に掲げた部分では、十字架のイエスの(向かって)右側の枠には愛弟子ヨハネ、左側には、ここでは映っていないが、マリアがいる。十字架磔刑図の定型である(ヨハネ19・26-27に基づく)。興味深いのは、イエスの足もとに描かれているアダムとエバである。これは、イエスは死後、陰府(よみ)に下(くだ)り、アダムとエバ(すなわち全人類)を救い出したのだという伝承に基づくもの。東方教会のイコンではこの「陰府(よみ)降(くだ)り」が、復活の図とされるように、ここではキリストの十字架死がその復活と一体のもので、人類を死からいのちへと引き上げる、救いの出来事であることが暗示されている。 イエスの目はしっかりと閉じられ、死を印象づけるが、磔にされている十字架が緑色であることに注意したい。これは楽園にあった「命の木」(創世記2章参照)を思い起こさせるもので、アダムとエバとの関連からも意味深い。人類が罪のために失った永遠の命は、イエスの十字架によって回復された。十字架のイエスは、すでに新しい命の主である。創造と救いの歴史がこれらの中に凝縮されている。 このような色彩と陰影によって十字架の神秘を表現するステンドグラスとともに、きょうの聖書を黙想してみたい。福音朗読箇所は、12人の弟子選びから始まったマタイ10章の最後の部分、イエスが宣教の心構えを明確なことばで語っているところである。父や母や息子や娘を愛することよりも、イエスを愛すること、自分の十字架を担ってイエスに従うこと、そして、自分の命を得ようとすることではなく、イエスのために命を失うことを求めている。 この内容は、先週の解説で考えたこと、すなわち宣教は神の意志による神のわざであるというところに尽きる。そのことに仕える弟子(使徒)たち、ひいてはキリスト者たちは、イエス、そして父である神とのつながりこそを自分の生き方の根幹にしている。繰り返される「わたし(イエス)を愛すること、イエスに従うこと、イエスのために命を失うこと」とは、神に生きるということである。その意味内容が、後半のことばで言い換えられているといってよいだろう。使徒の宣教を受け入れる人は、イエスを受け入れる人となることであり、それは、イエスを遣わした方、父である神を受け入れることになる。 使徒のことは預言者として、そして正しい者(義人、神のみ旨に従う人、み心に適う人)と言い換えられて、イエスの弟子として生きること、福音の使徒として生きることの本質が語られる。それらの表現の中でキーワードとなる「報い」(「正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」(41節)は、神に生き、神の行いである宣教に仕えたことから帰着する、神のいのちとの一体化といったことだろう。終末の裁きにおいて最終的に正しい者と認められることを伝えようとしている。 使徒、預言者、正しい者(義人)が神に生き、神に仕える人をいう同義的な表現とすると、第1朗読の列記下(4・8-11、14-16a)は、預言者を「聖なる神の人」と語るエピソードを伝える。また、第2朗読のローマ書(6 ・3-4, 8-11)はキリストに結ばれた者としてのキリスト者としてのあり方を告げる。これも神に生きることについての明快な教えである。ステンドグラスの磔刑図のキリストを眺めつつ、今の世界で、神に生きること、キリストに結ばれてキリストに従って生きる生き方について思いを深めたい。 |