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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年7月26日  年間第17主日  A年(緑)  
この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください (列王記上3・9より)

ソロモンの夢 
聖ヴァースト修道院聖書写本
フランス アラス市立図書館 11世紀

 「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち」(列王記上3・5)で始まるきょうの第一朗読箇所(列王記上3・5、7-12)にちなむ、聖書挿絵である。フランス北部、パ・ド・カレー県の県都アラスの市立図書館に所蔵されている。聖書本文では、主がソロモンの夢枕に立って語りかけているとあるが、この絵では、右上の雲(神の栄光の象徴)から現れる複数の天使が主の顕現を表している。
 天使たちは画面の上に体を真横に突き出し、床に横たわるソロモンと完全に向き合っている。簡素な画面の中にも、寝具や右側の家来たちが彼の王位を示している。床の上のソロモンは、ここで、一人だけで天使たちと出会う。民を正しく裁くために訴えを聞き分ける知恵のみを求めたソロモンに対する、神の賜物の約束とソロモンに対する称賛のことばが出る。「見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」(列王記上3・12)。ここにおいて神のみ心とソロモンの意志が合致している。その聖なる喜びの雰囲気がこの挿絵にみなぎっているといえないだろうか。
 さて、この絵を見て真っ先に思い起こされるのは、マタイ福音書(1・20-25)におけるヨセフの夢の場面である。ただマタイの叙述によると、天使がヨセフにイエス誕生の予告をするだけで、彼の応答の言葉はない。それに対して、列王記上が物語るソロモンの場合は主の「何事でも願うがよい」の呼びかけに答えてソロモンも多弁である。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」(列王記上3・7)。このような神の前にへりくだる気持ちの表現は、むしろ、天使のお告げを受けたマリアの姿と言葉(ルカ1・26-38)を思い起こさせる。
 ソロモンは、神に信頼し、すべてを神から求め、「自分のために」といっても、個人としての長寿・富・敵への勝利を願うのではなく、神に仕える王としての使命を果たすために、神から知恵を求めたというところで、神に生きる人の象徴として言及されている。これこそ、きょうの福音朗読箇所(マタイ13・44-52)にちなんでいえば、「持ち物をすっかり売り払って」(44、46節)でも得たい「宝」であり「真珠」なのであろう。「神よ、あなたの定めはすばらしい。心を尽くしてわたしはそれを守る」(答唱詩編より。詩編119 ・129 )、「すばらしい宝を見つけた人のように、わたしはあなたの仰せを喜ぶ」(同、詩編119 ・162 )のである。
 ソロモンはある面で、イエスの姿を前もって示す人でもある。ソロモンに授けられた「知恵に満ちた賢明な心」は、イザヤ11章2節で来るべきメシアについて約束される霊を連想させ(「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」)、「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」(使徒言行録10・38)と語られるキリストを連想させる。こうして十字架につけられたキリストこそ神の知恵と考えられるようになる(一コリント1・18-31参照)。ルカが語るところ、イエスは幼子のときから「知恵に満ち、神の恵みに包まれ」(ルカ2・40)、少年期には「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(同2・52)方であった。
 ソロモンの夢の中での主との対話には、こうしてヨセフも、マリアも、そしてなによりもイエスにつながる側面が幾重にも見られる。神の救いの計画の中で選ばれ、それに仕えることになる人の姿である。我々も洗礼と堅信をとおして聖霊のたまものを受け、神との交わりに生きる知恵と賢明な心が受け継がれている。神の恵みをただ願い、ひたすらそれを受け入れ、それに添って生きていくことに信仰生活の心があるとすれば、静かに横たわり、神の恵みを待つ、このソロモンの姿にその一つの模範を見てもよいのではないだろうか。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

答えの彼方、彼方の応え
 若松英輔 批評家・随筆家
 愛する人を私たちは生涯を費やして知ろうとします。むしろ、知ろうとする行為が相手を信じるという営みを深めていくようなことがあります。この人のことは確かに知っている。しかし知りつくすことはできないと感じたとき、私たちの内に信じるという営為がこつ然と生まれるように感じられます。ですから、愛する者を知りつくそうとしてはならないのかもしれません。また、自分をいたずらに掘り下げてもいけない。わたしはわたし自身を知らない、という場所に立てたとき、人は自分自身を信じ、愛することを自覚するのではないでしょうか。

オリエンス宗教研究所 編『はじめて出会うキリスト教』「キリスト教とわたし──6」本文より


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