2020年8月16日 年間第20主日 A年(緑) |
「主よ、どうかお助けください」 (マタイ15・25より) オランス(祈る人) フレスコ画 ローマ トラソンのカタコンベ 4世紀 福音朗読箇所マタイ15章21-28節は「カナンの女の信仰」という見出しで紹介されている(新共同訳)。直前の箇所マタイ15章1-20節では、神の掟よりも自分たちの言い伝えのほうを重視するファリサイ派や律法学者に対するイエスの戒めがテーマになっている。ここでは、それとは対照的にカナンという異邦の女の態度がイエスから称賛されることになる(ちなみに対比されるファリサイ派や律法学者とイエスとのやり取りの場面は今年の主日朗読には含まれず、並行箇所のマルコ7章1-23節がB年の年間第22主日で読まれる)。きょうの福音を黙想するためにはマタイの15章全体の流れを踏まえることが大切だろう。 きょうの福音朗読箇所は、イエスと女との短いことばのやりとりできびきびと展開する。その中でも、実は救いの歴史の大きな展開が記されている。それは、並行箇所マルコ7章24-30節には出てこない、マタイのみが記すイエスのことばによって印象づけられる。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15・24)である。同じようなことばが、マタイ10章5-6節の十二人の弟子を派遣する場面でも出てくる。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」。これも並行箇所(マルコ 6・7-13、ルカ9 ・1 -6 )には出てこない、マタイ固有の記述である。 つまり、マタイでは、イエス自身が自らの優先的な使命として、イスラエルの民のうちにあって信仰を失い、神から失われた者とされる人たちのところに、「天の国は近づいた」と福音を告げることだと考えていることになる。ところが、復活後の弟子たちの派遣の場面では、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・18-19)と告げる。イスラエル中心の宣教意識が、復活を通してすべての民への宣教という意識に発展しているともいえる。このように、マタイの叙述に従って見ると、イエスにおいて「すべての民をわたしの弟子にしなさい」いう意識が顕在化し、明確に告げられるようになるために、宣教活動の中での個々の人たちとの出会いが作用していったともいえる。イエスの救いのみわざは人々との出会いと交わりを契機として生き生きと展開されていくのが福音書である。 そのような中で、カナンの女との出会いは、一つの決定的な役割を果たしているようである。この女と出会い、この女の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という切実で誠実な願い、そして、自らを主人の食卓から落ちるパン屑をいただく小犬にたとえるという謙遜な態度に、イエス自身が心を動かされ、その娘の病気をいやす。人間的情感が交わされるこのエピソードは、万人に向けられる福音のもつ意味を温かく感じさせ、救い主イエス・キリストの姿を大変に身近にさせてくれよう。 きょうの表紙絵は、ローマのカタコンベの壁画「オランス」(部分)である。オランスは、初期の教会の人々の魂の象徴として描かれているものといわれ、カタコンベ(地下墓所)に描かれたものであるところから、死にゆく人々が来世の幸福を願う魂の姿を形象化したものともいわれるが、我々の視点からは、もっと普遍的な“祈る人”の姿、“祈る心”の形象として鑑賞することができる。そして、ローマ時代の比較的高貴な家柄の女性の姿を表現するこの絵に、いわば「祈る異邦人の女」を見てもよいだろう。ローマは、まさに異邦人世界の象徴であり、新約聖書の範囲における使徒たちの宣教の一つの目標地点であった。そのような中でキリストの福音を信じていく諸国の人々が増加していく様子を、ローマ時代特有の自然描写や人物描写の雰囲気とともに味わってみよう。 イエスに対して「主よ、憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という率直な祈りを差し向けていく異邦人世界の人々の姿をこの絵の背後に感じていきたい。この願いは、願いにとどまらずに何よりも賛美のこもった信仰告白である。ミサの開祭で告げる「主よ、あわれみたまえ」と、このカナンの女の姿はまっすぐにつながっている。我々はカナンの女の心を受け継ぐ者として招かれている。 |