本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年9月20日  年間第25主日  A年(緑)  
わたしの気前のよさをねたむのか(マタイ20・15より)

ぶどう園で働く人々のたとえ
コンスタンティノポリスの福音書挿絵  
パリ フランス国立図書館 11世紀

 きょうの福音朗読箇所は、マタイ20章1-16節。ぶどう園で働く人のたとえである。労働者、賃金、監督という言葉が登場することによって、そう昔のこととは思えない。時給という現代的な観念にも響いてくるような話で、短い時間しか働かなかった人と長時間働いた人が同じ報酬であったと語られる点には、ほとんどの人が理不尽さを感じてしまうだろう。それほどに、イエスの話が現実的に聞こえてくる。
 コンスタンティノポリスで作られたこの福音書写本の挿絵は、一見して、人々が働いている下段の光景、そして、監督の前で賃金を受け取ろうと列を作って並んでいる人々を描く上段の光景が、この話の流れをよく反映している。監督の後ろ(上段、向かって左)に、描かれているのは、話の流れからすれば、ぶどう園の主人ということになるだろう。同時に、その姿は、我々には、この話を語っているイエスのようにも見える。
 さて、このたとえを通して、イエスは、人間的に見ると不公平な報酬の与え方が神の人間に対するかかわり方を示していると教える。「わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)というたとえの中の主人のことばが、神のことばとしての輝きを放っている。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)は、格言風のことばもよいヒントとなって、人間の思い方と神の思いの違いが教えられる。このことをさらによく示しているのが、第1朗読のイザヤ書(55・6-9)である。「わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(9節)とあるところである。このような神のあり方、その思い、働きに気づくようにというのがイエスの話の真意である。人間の目で見て不公平に思われることでも、神の側から見るとそれぞれに等しく尊い価値をもっている点に一つのテーマがある。我々も絵の上の人々の列のように、他人と一緒に並べられて見られることがよくある。しかし、神の目からは一人ひとりが掛け替えのない存在であり、神の聖性にそれぞれあずかっている。一人ひとりに神の尊厳が分与されていることに気づき、神の前で自覚をもって生きる者となるようにというメッセージで貫かれている。
 「気前のよさ」ということばには、神が人を限りなく受け入れようとしていることが示される。ここには神の招きがある。これに対応する人間の心の持ち方を語るのがイザヤ書である。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(イザヤ55・6)。ここで呼びかけられている、「尋ね求め」も「呼び求め」も、あてどない探求ではなく、神の招きに気づき、それに応えることとしていわれている。神はすでに「見いだしうる」方であり、「近くにいます」方なのである。
 このことばに注目すると、イエスの神の国の福音、マタイによれば「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4・17)がまさに、このイザヤの預言と重なって、それを完成させるメッセージであることが見えてくる。そして、きょうのたとえ話を通じてイエスが求めているのも、いわば「悔い改め」なのではないかと思う。自分たち人間の思いを、はるかに超えている神の思いの前に、自分自身を低くし、「神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(第1朗読 イザヤ55・7参照)ことを悟り、「立ち帰ること」、「悔い改める」ことが求められているのである。そしてこの神の「気前のよさ」と語られる、そのみ心の内容は、イエスの山上の説教(マタイ5・3-12)が見事に語り明かしている。そのようなみ心をねたましく思うのは、人間の思いにとどまり、こだわっているあらゆる人々なのだろう。しかし、その「ねたみ」を心に感じることも、神の思いに近づいているしるしのように、ここでは教えられている気がする。
 ちなみに、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)のことばは、福音書の他のさまざまな箇所を想起させる。たとえば、マタイ福音書19章13-15節で、イエスが「子供たちを来させなさい。……天の国はこのような者たちのものである」といって、手を置いて祝福するところ。ルカ福音書1章47-55節のマリアの歌の中の「主は……権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ……」(ルカ1・47-55)などである。ほかにも、「迷い出た羊」のたとえ(マタイ18・10-14 並行するルカ15・1-7の「見失った羊」のたとえも参照)、「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11-32)なども思い起こされる。さまざまな角度から天の国(神の国)を説き明かしていることが見えてこよう。
 表紙の絵を眺めていると、神の国に招かれている人々の神を求める働きと、それに対して神が報いている様子としても見えてくる。人々の間や周囲に生えている木々や植物が神の国のしるしのようである。それは、我々の日々の祈りを通して繰り広げられている神との交わりの景色といえるかもしれない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

年間第二十五主日
 ぶどう園主の答えの最後に「わたしの気前のよさをねたむのか」とあるが、これを直訳すると「わたしが気前がよいので、あなたの目が悪いのか」となる。早朝から働き始めた者は、夕方五時から働き始めた者が一デナリをもらったのを見て、欲をふくらませ、目を悪くする。それで、ものが見えない。もし見る目を持っているなら、雇用が贈り物でもあることに気づくはずだ。

雨宮 慧 著『主日の福音――A年』「年間第二十五主日」本文より

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL