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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年12月13日  待降節第3主日  B年(紫)  
あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる(ヨハネ1・26より)

洗礼者ヨハネ   
ビザンティン・イコン  
アトス ヒランダリ修道院 13世紀

 待降節第3主日も、洗礼者ヨハネに焦点が向けられる。ヨハネ福音書の冒頭1章1-18節におけるヨハネへの言及のところと、19-28節の箇所が読まれる。先週読まれたマルコ1章1-8節の洗礼者ヨハネ登場の場面に、ある意味で並行するようなヨハネ福音書における彼の登場の叙述であるといえる。
 先週の考察で、洗礼者ヨハネは、あたかもエリヤの再来のイメージで叙述されていることを見たが、ここでは、当時の人々が待ち望んでいたことが次々と示される。メシア(救い主)、エリヤ、「あの預言者」(申命記18・15-18参照)などである。それに対して、ここでは、洗礼者ヨハネ自身が預言者イザヤのことば(イザヤ40・3)を踏まえて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1・23)と自ら告げる。ここでのポイントは、洗礼者ヨハネはあくまで、すでに「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(ヨハネ1・26)と、救い主の到来と現存をあかししているところにある。
 きょうの表紙絵のイコンは、いわゆる「デイシス」の図を構成する洗礼者ヨハネの姿である。「デイシス」(「懇願の祈り」の意)とはキリストを真ん中にして、人々の願いをキリストに取り次ぐ洗礼者ヨハネを向かって右側に、マリアを向かって左側に配置する型のイコンのことである。ここでのヨハネが(向かって)左向きなのはそのためである。そのまなざしはキリストに向かっている。手のしぐさは嘆願の取り次ぎを意味している。ヨハネの、あくまで自分よりも優れた方、自分が「その履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1・27)方、すなわち救い主キリストに仕える者であるという姿に(このイコンでは)光があてられているのである。
 現在のミサの叙唱で「待降節 二」(12月17日以降の待降節用)では、「主・キリストをすべての預言者は前もって語り、おとめマリアはいつくしみをこめて養い育て、洗礼者ヨハネは、その到来を告げ知らせました」とある。待降節第2主日と第3主日には洗礼者ヨハネが登場し、次の第4主日からはマリアに焦点が移り、救い主イエスの訪れを準備した、二人の存在が大きく思い起こされる。それはあたかもデイシスの構図にも対応する展開であると言えよう。ちなみに、この叙唱で「その到来を告げ知らせました」と訳されているところの原文は直訳すると「キリストがこれから来ることを予告し、今いることを示しました」というような文章である。ちょうど第2主日から第3主日への展開に対応するような内容である。
 現在の朗読配分になる前の『ローマ・ミサ典礼書』で、待降節第2主日の福音朗読箇所はマタイ11章2-10節であった。これは現在のA年の待降節第3主日(マタイ2・2-11)の朗読が受け継いでいる。牢の中にいるヨハネが、自ら予告した救い主がイエスであるかどうかとの問いかけを弟子に託すところから始まり、その問いを受けたイエスがヨハネを最も偉大な者として称賛する箇所である。そして以前の待降節第3主日の福音朗読箇所はヨハネ1・19-29節で、きょうのB年の待降節第3主日の朗読に受け継がれている。そのほかにも、現在はABC年の待降節第2と第3の主日で合計6回も洗礼者ヨハネのことが記念され、彼によって予告され、あかしされる主イエスの到来がとても豊かに記念されている。なによりも、紀元前後の時代の救い主への待望の雰囲気の中で、洗礼者ヨハネが告げ知らせ、実践した悔い改めの洗礼の意味がとても深く印象づけられよう。救いの歴史の中での旧約の出来事や預言者たちの生涯とイエス・キリストとの関係のさまざまな形に思いが導かれる。半世紀前から始まった現在のようなミサの聖書朗読配分が、いかにわたしたちを救いの歴史の深みに招くものであるかが、あらためて感じられる待降節でもある。
 そして、きょうの福音朗読の中でヨハネが「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(ヨハネ1・26)と告げるように、まさしく、待降節第3主日は、遠く待ち望む局面から、救い主が今、すでに来ておられるという現存の喜びを味わい始める日でもある。伝統的な入祭唱「主にあっていつも喜べ(Gaudete semper in Domino) 」から「喜びの主日」と呼ばれるゆえんである。
 第1朗読のイザヤ書(61・1-2a、10-11)は、「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る」(10節)と告げ、答唱詩編も詩編からではなくマリアの歌が歌われる。「わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる」(ルカ1・46 典礼訳)で始まる賛歌である。そして第2朗読の一テサロニケ書(5・16-24)も「いつも喜んでいなさい」から始まる。見事に主題の統一が見られる「喜びの主日」は、福音(「良い知らせ」イザヤ61・1)の主日といってもよいだろう。
 主がすでに来ておられる喜びを、このイコンとともに、そこで主イエスを指し示す洗礼者ヨハネの姿勢や表情からも、その背景の金色、神の栄光の色の輝きからも、味わってみよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

フランシスコの説教
 フランシスコが宣べ伝えたのは、神の国、平和、救いと罪の赦しのための悔い改めであった。話し方は、聴衆に媚びずに、過ちを指摘し、叱責し、悔い改めへと導くものだ。しかし、そのような話し方の基礎にあるのは、「行動によって自分が確信を持てるように」していたからと指摘されている。この内容から、フランシスコは明確に道徳的な内容を宣べ伝えていた。そして、それは彼自身の生活の中から出てきたものである。彼は自ら行うことで、自信を持ってはっきりと述べることができたのだ


伊能哲大 著『現代に挑戦するフランシスコ』「15 『悔い改めを宣べ伝える』使命」本文より

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