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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年02月17日  灰の水曜日  (紫)  
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい   (マタイ6・6より)

全能者キリスト
ロシア・イコン
ドイツ レックリングハウゼン・イコン博物館 17世紀末

 全能者(パントクラトール=すべてを支配する主)という称号で呼ばれるタイプのイコンのキリスト像である。伝統的要素として、右手は神の権能を示すもので、一般には祝福のしぐさとされる。親指・薬指・小指の三本の指を合わせて輪を作った形は三位一体の印である。左手で持っている聖書はここでは開かれており、文字は判読しにくいが、解説書によると「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい……」(マタイ11・28-29)の箇所が書かれているそうである。
 全能者キリストは、イコンの伝統的な型である「デイシス」の図の中央に描かれることが多い。「デイシス」とは「嘆願」とか「取り次ぎの祈り」を意味し、キリストの(向かって)左側にマリア、右側に洗礼者ヨハネを置くのが基本で、ほかに天使や聖人が描かれることもある。中央のキリストは、原則として玉座に座す全身像で描かれるが、比較的小さい聖堂では、このイコンのように半身像として描かれるものもあった。全体の暗さは、17世紀当時のロシアで保守派とされる系統のイコンの特徴といわれるものである。しかし、当時の傾向性の一つとしてよりも、このイコンが映し出す、キリストの存在の厳粛さ、聖性、そして、すべての人を「わたしのもとに来なさい」と招く慈しみの心を感じ取りつつ、きょうの福音を味わってみよう。
 福音朗読箇所マタイ6章1-6、16-18節を見ると、イエスはしばしば、「隠れたことを見ておられる父」(4節、6節、18節)、「隠れたところにおられる父」(6節、18節)と語る。すなわち、施しや祈りや断食は人に見せるためにするものではない。隠れたところにおられる御父が見ていてくれるとの信頼をもって行うとき、神は報いてくださるのだと教えている。
 この福音の受けとめ方を少し考えてみる必要がある。「隠れたところにおられる」と聞くとき、我々はどこか遠いところを連想してしまうのではないだろうか。「あなたがたの天の父」(1節)という言い方からも、そうなりかねない。しかし、イエスのことばと行いは、まさに御父の姿を示すものである。このイエスの中に御父はおられ、イエスの顔は、それ自身、御父の顔を示しているのである。
 全能者キリストというイコンは、まさしく、イエス・キリストのうちに御父である神の姿がともに映し出されているイコン(ギリシア語エイコーン)である。福音とは、「神の似姿(エイコーン)であるキリストの栄光に関する福音」(二コリント4・4)である。そのような御父と御子の一致を深く黙想させてくれるのがこのようなイコンのキリストである。このイコンの特徴である薄暗さは、かえって、そのことを印象づける。
 きょうの福音のイエスの教えは、世間体、評判、見栄といった人間世界における思惑に心を縛られるのではなく、透徹した目で自分自身も世間・世界も見つめ、ただ、神のみ旨にのみ心を向けていくことを呼びかける。このメッセージは普遍的である。一見、ファリサイ派や律法学者に対する批判話のように読んでしまうと、そこでの「偽善者」ということばが自分に向かっているということを見過ごしてしまう。それはいま生きているキリスト者一人ひとり、いや万人に向けられていると考えなくてはならない。
 全能者キリストと言ってしまうと、一見、我々を超えた峻厳な主キリストと思われるかもしれないが、実はミサの中でいつもともにいるキリストの姿でもある。集会祈願の結びで、「あなた(御父)とともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」と唱える、そのときのキリストがまさに、御父とともに全能者、全支配者であるキリストである。「支配」といっても、制圧や抑圧の意味はない。慈しみと愛によって、文字通り、すべてを支え、配慮し、導くことにほかならない。第1朗読箇所(ヨエル2・12-18)の中でいみじくも告げられている通りである。「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」(13節)。我々がひたすら信頼をもって祈る神である。「神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによって、わたしのとがをゆるしてください」(答唱詩編、詩編51・3)と。そしてイエス・キリストによってわたしたちは「神と和解させていただき」(第2朗読箇所 二コリント5・20)、「神の義」(同21節参照)に立ち帰る。
 このような祈りの心は、ミサの開祭でいつも表明されている。回心の祈りから「あわれみの賛歌」への流れは、灰の水曜日の祈りをいつも懐胎している。回心の表明と灰の式から始まる四旬節から主の死と復活を記念する聖週間・復活の主日への展開は、ミサの中でいつも実現されているとさえ言える。四旬節は、こうしてミサの源に、いつもともにおられる御父と御子の交わりのうちに、聖霊を通して絶えず招き入れられる季節である。


 きょうの福音箇所をさらに深めるために

言葉が出来事を引き起こす
 「自分をどう使おうとしているのか」という言葉は、自分が今参加している現実の中にあるということです。それを聞き取るということが祈りなのです。これが聖書の中での言葉の役割であり、祈りのあり方です。つまり、心を澄ませて神の声を聞くために祈るのです。

 イエスが山の中に退いて祈ったとありますが何を祈られたか。周りの状況を考えながら、神様が自分をどう使おうとしているのかを聞き、考えられたのでしょう。

 山浦先生は大震災よりもずっと前の対談でこのようにおっしゃっていますが、まさにこの階上中学で答辞を読んだこの少年は同じことをしたのだと思います。

星野正道 著『いのちへの答え――傷つきながらも生きる』 Ⅱ神の言葉を聞く 本文より

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