2021年02月21日 四旬節第1主日 B年(紫) |
わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる (創世記9・9) 洪水から救われたノアたち アシュブルム・モーセ五書写本 5-6世紀 パリ国立図書館 この写本は、ヴルガータ訳聖書(ローマ教会で一般的となったラテン語訳聖書)によるモーセ五書のうち申命記以外の本文に全部で18の挿絵が付けられている。どれも本文の物語の興趣をよく反映した絵とされる。ギリシアやエジプトの写本芸術との関連も見られ、制作地はスペインと考えられているが、必ずしもはっきりしない。9世紀頃からフランスのトゥールに所蔵されていたこの写本が、1843年外に出回り、途中アシュブルム卿という貴族の手に渡っていたことからこの名前が付いている。 表紙絵では、一つの画面上にノアをめぐる話のさまざまな場面が描き込まれている。白髪と白髭の男がノアで、ここでは、7箇所に登場する。その脇に「このノアは……」という説明句が付いている。この文字部分があまりはっきりとしないので、創世記6章9節から9章17節までの洪水とノアの契約までの話を比べながら読んでいくしかない。 右上のノアは、雲の中から伸びた神の手を見つめている。雲は人間の目には見えない神の栄光のしるしである。その中から出てくる右手は神の働きかけや語りかけを象徴する。この部分では、神のことば、すなわち洪水と生き物の滅びの予告し、箱舟を作ることをノアに命じ、そして、契約を結ぶ約束を告げるところまでを含んでいると思われる(6・13-7・5)。洪水そのもの(7・6-24)は。この絵にとっては背景に過ぎない。箱舟の中には、ノアと三人の息子たち、ノアの妻、息子の三人の嫁たち(7・13)が確かにいる。きょうの第2朗読(一ペトロ書)で、洪水から救われた8人と呼ばれる人々である(一ペトロ3・20)。右端の窓からノアは烏を掴み、左端の窓からは烏を放っている。地上の水が渇くのを待って、出たり入ったりした(8・7)を反映しているのだろう。中央の窓で、ノアはオリーブの葉をくわえて帰ってきた鳩を迎えている(8・11)。水が引いたしるしである。地がすっかり渇くと、神はノア一家に「箱舟から出なさい」と告げる(8・16)。箱舟の扉から外を見ているノア一家の描写は、このあたりの物語に対応する。本文では一家が出たあと、動物たちが箱舟から出てくるが(8・19)。ここでは、すでに地上に降り立って歩いている。見るかぎり、ろば、ライオン、牛、ラクダ、羊、犬、さそり、蛇などがいるようである。箱舟の上のほうで飛ぶ鳥たちもすでに解放されたあとの鳥なのかもしれない。 そして、左下では祭壇を築き、献げ物をしようとしている。聖書では家畜と鳥からささげる焼き尽くす献げ物が言及されているが(8・20)、ここではミサで聖体を準備しているようでもある。 そこでも、ノアの頭に、神の右手が現れている。「人に対して大地を呪うことは決してすまい」(8・21)という神のことばを暗示していよう。ノアの物語の続く創世記9章は、神のノアへの祝福と契約について語る(きょうの第1朗読を含む)。右上で描かれた契約の約束に対する実行の部分である。右上の雲の一番外側の部分は、ノアの契約のしるしである虹を先取って描いていると考えもよいだろう。 祭壇の献げ物を聖体と考えるなら、ここには、洗礼と聖体の秘跡が暗に縮図のように描かれていると受けとめることもできる。洪水によって罪に死に、神との契約のもとで新たに生まれる、そしてその契約関係を、聖体の秘跡は絶えず新たにしていくものだからである。 今、創世記6-9章を見て、あらためて気づくことがある。洪水は40日40夜、雨が降ったことから始まる(7・4,12)。洪水も40日間地上を覆った(7・17,8・6参照)。このことも、きょうの福音朗読箇所マルコ1章12-13節の中で、イエスが送り出された荒れ野に「四十日間」(13節)とどまったことと重なってくる。そして、40日間、全地を覆った洪水は、現代の地球世界を生きる人類の生き方やその環境に対しても示唆的である。世界戦争の脅威、環境問題、新型ウイルス感染のパンデミックなど、人類の存亡、そして一人ひとりの命の危機がこれほど強く、切迫して感じられてならない現代である。イエスの荒れ野の試みが単に個々人の道徳や品行を問いかけるだけのものではない広がり、深さ、根深さをもっていることに、このようなノアの話は気づかせてくれる。そのことによって、二度と滅びの危機に陥らないようにと、神が結んでくれた契約のしるしである“虹”は、イエス・キリストによって、今、ミサの祈りをともにする我々すべての上にも掛かっている希望の象徴であり続けるのではないだろうか。 天の彼方の輝きを映し出すかのような虹……。それは自らの死と復活によって、地上の世界と天上の世界を結ぶことになったイエス・キリストが、その記念のために残された感謝の祭儀(ミサ)となり、主日ごとにかかる“虹”として、神の契約の恵みを人類すべてに示すものである。 |